クノップフをめぐる論考 | 斎藤英喜の 「ぶらぶら日記」

クノップフをめぐる論考

久しぶりに美術の話題です。

ベルギー象徴派の代表的画家とされるクノップフは、わが偏愛する画家のひとり。

日本ではおそらく岩崎美術社の「夢人館」のシリーズの画集が出ているぐらい。

 

  

 

ブリュージュの静謐な風景を描いた絵や、蠱惑的な女性、あるいは性別を超えたアンドロギュノスの神話的な作品など、ときどきふっと思い出されて、画集をながめてしまいます。

ところで最近、エリファス・レヴィ関係で、彼の「弟子」すじみたいな人物のジョセファン・ペラダンについての澁澤龍彦のエッセイ(『悪魔のいる文学史』)を読み直していました。

 

そのなかでペラダンが主催した「薔薇十字展」にクノップフが、けっこう出品していたこと、とくにペラダンがもっとも評価していた画家は、クノップフであったという記述を見つけて、なるほどそうか!!と納得しました。

 

クノップフが第一回目の薔薇十字展に出したのが、《私は私自身に鍵を閉ざす》であったことも、この絵がもつ、いろんな解釈可能な、まさしく「象徴派」という画面の雰囲気も、あるいはベラダンの影響もあるのかも。

 

御棺のような長い箱に頬杖を突き、まったく表情のない女性、その背景には、ギリシャ神話のヒュプノスの彫像、そして実景なのか風景画なのかわからないブリュージュの街…。

というところから、あらためてクノップフの絵を見ると、またまた面白いですね。

 

クノップフと「魔術」との関係については、生田耕作の『クノップフの世紀 絵画と魔術』(奢灞都館)があります。これって、なんと1983年のNHKの「日曜美術館」の放送原稿です。録画とか残っていれば、ぜひ見たいけれど、残念ながらNHKアーカイブにもないみたい。

 

生田さん、クノップフとの関係でレヴィについて、「魔術とは至高の知」であること、クノップフの「大衆を見下した高踏的な作風に接しますと、まったく砂漠でオアシスに出会ったような思いがいたします」なんて熱く語っています。

うぁ~~、これは生で観たかった…。

 

その他、クノップフ関係の1973年の『みづゑ』の特集、1990年の『芸術新潮』の特集、

また1989年の『美術手帖』の特集があります。『みづゑ』は、古本屋でバックナンバーを購入しました。

 

1973年といえば、僕はニチゲイ(日大芸術学部)の現役の美大生だったころ(笑)。

そのときはモローが好きだったのに、クノップフのことは知らなかった。

 

ということでクノップフには、一部に熱狂的なファンがいるみたいですが、ともかく画集がひとつしか出ていないのが残念。というか、これを持っていることを自慢しているんですが(笑)

 

それにしても、『みづゑ』とか『芸術新潮』とかのクノップフをめぐる論考、エッセイには、まったく澁澤とか生田とかが言及されていないようで、これも「文学」と「美術」の区別からくる、書き手の知識の片寄り?

 

そのうち、今の仕事がひと段落したら、「近代魔術」の視点からクノップフとレヴィ、生田耕作、澁澤龍彦をめぐるエッセイとかが書きたいという、ちょっとした「野望」(笑)