しばらく東京住まいでした。/陰陽道史研究会の第三回目 | 斎藤英喜の 「ぶらぶら日記」

しばらく東京住まいでした。/陰陽道史研究会の第三回目

先週の土曜日(18日)、今週の火曜日(21日)と東京で二つの研究会があったので、しばらく東京住まいでした。



土曜日は、東大で「陰陽道史研究会」の第三回目。

今回は「古代・中世陰陽道研究の現在」という全体テーマで、
・高田義人「泰山府君都状の古文書学的考察ー鎌倉初期までの事例を中心にー」
・西岡芳文「式盤をまつる修法とその展開」
・赤澤春彦「中世における陰陽道祭祀 ―風伯祭を事例に―」
の三人のご発表。どれも内容の濃い聴き応え満載のものでした。



高田さんの発表では「都状」についての定義、とくに「祭文」との違いなど、かなり判明してきた感じです。とくに「都状」の二つの種類分けは、納得でした。
また密教儀礼にも「都状」のネーミングが使われたこと、とくに保元二年の「土公の祟り」についての都状は、僕自身も分析したことがあったものなので、とても興味深いものでした。

西岡さんの「盤法」の資料は、ともかく驚愕の世界。山下克昭さんからの指摘で、
それが『将門記』にも出てくることもわかりました。
また奥三河の花祭伝書の「盤封作法」の資料は、
これも僕自身が取り上げた奥三河の「大土公神経」のなかに式盤にかかわる「十二月将神」が出てくることの「謎」が解けた感じでした。

赤澤さんの発表では、「風伯神」というのが、陰陽道の思想、世界観とどう関わってくるのかがポイントですね。それが鎌倉幕府の陰陽道祭祀としてのみ登場することの意味も大きい。(これは火曜日の研究会で考えたことですが、鎌倉幕府には「神祇官」がない、という問題ともリンクしてきそう)


議論のなかで、「陰陽道」なるものが形成される過程で、密教との交渉、習合はこれまで言われていた以上に、早い段階から始まっていること、「仏教」「神祇」と「陰陽道」などと区別してしまうこと自体が、歴史的な姿を見えなくさせてしまうのでは…、といったことが話題になりました。

今回は、以前に比べて人数は少なめでしたが、「精鋭」が集まったという感じで、とても充実した会でしたね。やっばり「陰陽道」を対象とする、という共通の目的があることが、この会を盛り上げているのだと感じました。

それになんといっても、陰陽道研究者は、いろんなところで「少数派」なので、なんか「運命共同体」みたいなまとまりもあるのかもしれませんね(笑)。

研究会のあとの懇親会、そしてさらに二次会と飲み続け、こちらも楽しいひとときでした。



火曜日の研究会は、「前近代日本における病気治療と呪術」をテーマとした、Kさんが代表の科研費による会。

こちらでは僕は発表者でしたが、「土公神の祭文と神楽」に関する複数の論文を焼き直したもの(スミマセン)。

でも、Hくんによる「呪術とはなにか」という、本質的な問いかけから始まった議論は、なかなか興味深いものになりました。
さて、この研究会の今後の展開はいかに…。