富士市鈴川、田子の浦の砂州の丘に、静岡県で唯一といわれる「富士塚」があります。富士塚とは江戸時代後期に高まりを見せた信仰「富士講」の人々によって、江戸を中心して関東各地に造られた、富士山を模した塚や小山のことです。
「富士講」は富士山を霊山として拝み、登拝する人々の信仰です。講を組織し講の中で金銭を積み立て、順番に富士山に修行者として登りました(代参)。人々は登拝に先立ってまず精進潔斎をします、そして白衣を着け、鈴を付けた金剛杖を手に「六根清浄お山は晴天」などと唱え、修行として富士山に挑んだわけです。
そして、富士山に登り修行を修められない老人や子供、登山が禁じられている女性にも、富士山に登拝できるようにと、講の人々は富士山を模してそれぞれの在所に富士塚を造ったのです。
この富士塚には、富士山に見立てた小山の山頂に浅間神社を祀り、黒ボクといわれる富士山の溶岩を配し、御中道や御胎内、合目標石を据え付け、富士講の名前をしるした講碑を建てるなどして実際の富士山を模しました。
また、塚の山頂よりは遠く富士を遥拝できる所も多く、山開きと称し祭典なども行われました。
① 鈴川の富士塚
② 秦野の石葺の円墳
さて、富士市鈴川の「富士塚」ですが、現在の写真①は江戸の富士塚とはちょっとおもむきが変わっています。これを写真②と比べると成る程と思われる方が多いと思います。写真②は神奈川県秦野市にある桜土手古墳公園に復元展示された石葺の円墳です。
しかし、富士塚の始まりとされている、江戸 戸塚村(現 新宿区高田)の水稲荷神社に造られた富士塚も、神社内にあった古墳を改造したものだそうですから、先祖帰りをしてしまったのかも知れません。
③ 明治40年頃の富士塚
④ 少し前の富士塚
写真③は明治40年頃の富士塚だそうです。この写真からも伺える印象は、富士講の富士塚とはちょっと違うようです。どちらかと云えばただの石塚です。もっとも、この塚の事を地元では「浅間塚」あるいは「赤人塚」(“田子の浦ゆうち出て”の山辺赤人ですね)・「天の香久山」「三平塚」とも呼び、その昔 役の行者が造ったものだとも伝えられ、また戦国時代には小田原北条氏はここを本陣として、今川や武田と戦ったそうです。
写真④は少し前の(平成26年 発掘調査前)の富士塚です。この写真だと山頂部が尖っていて明治の写真の印象に近いものがあります。これは1976年に地元の古老が記憶に従って復元した富士塚の状態だと思われます。
伝えられるところですと、鈴川の富士塚は、江戸の富士塚と異なり、富士登山のまえに登拝者が海岸で身を清め、海岸の玉石をこの塚に積み上げ、登山の安全を祈願した場所といわれています。ですから江戸の富士講にみられる、富士山登拝の代わりとして造られた富士塚とは性格が違います。ですからその姿も普通云われる富士塚とはおもむきが異なるわけです。
しかし、朝な夕なに富士を見上げる、ふもとに住む私たちにとって、このかたち。海で禊をし玉石を捧げ、富士を遥拝する場所としての鈴川の富士塚は、古くからある富士信仰の一部として、素直に受け入れる事ができるかたちだと思います。
鈴川の富士塚からは天気の良い日には、本当に美しい富士を望むことが出来ます。



