「レスラー」を観て | Surf’s-Up

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音楽の話を中心に。時にノスタルジックに

ちょっと変な映画レビューです。あんまり気にしないで読んで下さい。



一昔だと思っていた90年代は今や「二昔」



ということは80年代は「三昔」。



自分の10代はこの時期にまたがっていた。



先日「レスラー」という映画を見た。



ミッキー・ロークの久しぶりのブレイク作ということでも話題になっていました。



その中で、こんなシーンがある。



ローク演じるレスラー、ランディが好意を持っているストリッパー、キャシディー(マリサ・トメイ)に頼んで娘のプレゼントを買いに行く。その帰り、ランディはお礼にキャシディーをバーへと誘う。そこで流れるのは80年代のハードロック。



80年代のハードロックが大好きなランディ。この設定はやはりレスラーというところからもぴったりだろう。そこで、ランディーとキャシディーはこんな事を言う。



「80年代のロックは最高だ。ガンズ・アンド・ローゼズにモトリー・クルー、デフ・レパード・・・。それをニルヴァーナが出てきてぶちこわした。90年代は最低だ」


なるほどー、と思った。これはかなり含蓄の深い言葉だ。


こんな風に考えたことは今までなかったが、確かにその通りなのだろうと思ったのだ。



自分がこよなく愛したものが、時に時代の片隅に追いやられる


「歴史は繰り返す」の言葉の通り、それは当然のように行われてきた。



新しい価値観、新しいルール・・・


それらが波のように押し寄せた時、どうするか?


上手く乗りこなすのか、それとも・・・



ニルヴァーナが破壊したものとは何だろう?


簡単に言えば、それはロックの娯楽性なのだろう。



嘘みたいな恋愛、嘘みたいな夢しか歌わないロックには飽き飽きした。


だからこそ、ニルヴァーナのロックは僕らに届いた。



しかし、その「作り物の世界」でこそ光り輝く人もいる。


あらかじめ決められた勝負を、レスラーたちは力一杯に演じる。


映画では、プロレスのシナリオまでが克明に映し出されている。



年老いて、体もボロボロのランディーは心臓に致命傷を抱え


引退するが、そこで待っていたのはあまりにも痛々しい現実。



しかし、その現実は僕らの世界に当たり前のように転がっているものだ。


なので、そこの捉え方は人によって様々だろう。


僕は感情移入することができたが、中には「何甘えてるんだ!」と思う人もいるだろう。



ランディーは、おそらく最後になる試合に、ガンズの「Sweet Child O' Mine」で入場する。


最高に80年代な曲。僕は熱心なファンではなかったが、「Apetite For Destruction」は良く聴いた。



ここはたまらなく好きなシーンだ。最高にかっこいい。そして、最高に切ない。


なぜなら、「自分自身がいるべき場所」に帰るために、「死」をも厭わないからだ。


それが「必然」として、彼の前にあるからだ。



自分にとって「必然」なもの。たとえ悲劇であったとしても。


それはいったい何なのだろう?