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仏教は苦しみの根本である煩悩を断ち切って、さとりをひらいて仏と成り、心の平穏という幸せを得る事を目的としています。
この目的を達成する為には、大きく分けて二つの道が存在します。
一つ目は、出家をして僧侶となり、自らの力で修行をして、さとりをひらく道です。
この道を聖道門と言い、お釈迦様がさとりをひらいたのも、この道です。
二つ目は、阿弥陀仏という仏の教えを信じ、極楽浄土に往生する事で、さとりをひらく道です。
この道を浄土門と言います。
二つの道の違いは、さとりをひらくタイミングです。
聖道門は人として生きている間にさとりをひらく事ができますが、浄土門は人としての命を終えた後、極楽浄土に往生するまで、さとりをひらく事ができません。
さとりをひらく事で苦しみから解放されるのであれば、当然、生きている間にさとりをひらけた方がいいでしょう。
それではなぜ、浄土門という二つ目の道が存在するのでしょうか。
お釈迦様は、父親(釈迦族の王)から「なぜ私に、聖道門によってさとりをひらく為の修行を教えてくれないのですか?」と問われた時、このように答えています。
「自ら修行をして得られるさとりは、普通の人には思い計る事のできない深い境地です。これは到底、凡夫にできる修行ではありません。その為、私は父である王に念仏することを勧めているのです」
(観仏三昧経より抜粋)
それでは南無阿弥陀仏の念仏をして、極楽浄土への往生を願う浄土門を歩く人には、この世で生きている間は何も救いがないのでしょうか。
正信偈の29行目から34行目には、このように書かれています。
摂取心光常照護
已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧
常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
私達を摂め取って離さない阿弥陀仏の光明は、常に私達を照らし守ってくれています。
その光に照らされて既に無明の闇は破れても、貪りや怒りの雲や霧は常に真実の信心の空を覆っています。
しかし、たとえば日光が雲や霧に覆われていても、その下が真っ暗闇では無いように、阿弥陀仏の光明は、私達を摂め取り守ってくれているのです。
「お先真っ暗」という言葉があるように、人は将来の見通しが立たない時に絶望をするものです。
たとえ、この世でさとりをひらく事はできず、見上げる空が曇っていても、阿弥陀仏の光明によって命の行き先が極楽浄土だと分かれば、苦しみの尽きない人生であっても、前を向いて歩いていく事ができるのではないでしょうか。
※過去記事は、こちらにまとめてあります。
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