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人には、色々な種類がある。心の曇りの少ない人もいれば、曇りの多い人もいる。賢い人もいれば、愚かな人もいる。しかし、その本質に違いはなく全ての人は皆、さとるべき性質を備えている。

 

例えば部屋の中にいる人が、自分の居場所を知ろうとする時、まず部屋の中を見て、次に窓を開け、外の景色を見るでしょう。部屋の中を一切見ずに、外の景色ばかりを見る人はいない。同じように人の本質を知るのであれば、何よりも先に身の内にある心について知らなければならない。

 

ところがこの世の人々は、身の外にあることばかりよく知っていて、身の内にあることについては、ほとんど何も知らないのである。

 

人が煩悩(ぼんのう)に縛られて迷いと苦しみを重ねているのは、身の内にある清らかな心を知らないからである。

 

例えば月がしばらくの間、雲に覆われていても、そこにあり続けるように、清らかな心もまた無くなることはない。この清らかな心を、仏性(ぶっしょう)と言います。

 

仏性(ぶっしょう)とは、すなわちさとりの種である。

 

レンズを通して太陽の光を、もぐさに当てれば火が起こる。同じように人の中にある仏性(ぶっしょう)というもぐさに、仏の知恵という光が当たれば、人々の心に信心(しんじん)という火が燃え上がる。

 

この仏性(ぶっしょう)は、決して尽きることがない。煩悩(ぼんのう)に汚れた心の中にも、たとえ畜生に生まれ地獄に落ちたとしても、仏性(ぶっしょう)はその光を失わない。

 

しかしこの世の人々は目先の欲に目を塞がれて、外にある僅かばかりの利益(りやく)執着(しゅうちゃく)するばかりで、自分の中にある仏性(ぶっしょう)を見ることができない。そのため仏は人々に教えを説いて、本来、仏に成るための性質を備えていることを知らせるのである。

 

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