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この体もこの心も因縁の集まりであり、常に移り変わる。
願わないのに病み、望まないのに老い、思いもよらない悪を犯し、傷つきたくないのに傷ついて、何一つ自分の思うようにならない。
この体が永遠に変わらないものなのか、それとも無常なものなのかと問えば、誰もが無常なものだと答えるでしょう。
この世に生まれたものは、誰でもやがては必ず、老い、病み、死んでいかねばならないと気づいた時、無常なものは苦しみであると感じるでしょう。
このように無常であって、苦しみのあるものを、我がものであると考えるのは間違っている。知恵の無い心が、これは我がものであると執着しているに過ぎない。
この体もこの心も因縁によって生じたものであるから、常に移り変わり、少しもとどまることがない。
知恵のある人は、この体とこの心が因縁の集まりであり、無常なものであって、執着すべきものではないと知る。そうして執着を離れた時、さとりが得られる。
この世において、どんな人にも成し遂げられない事が、五つある。
一つ目は、老いてゆく身でありながら、老いないという事。
二つ目は、病む身でありながら、病まないという事。
三つ目は、必ず死ななければならない身でありながら、死なないという事。
四つ目は、いつかは滅びる定めのものを、滅ぼさないという事。
五つ目は、いつか尽きる定めのものを、尽きさせないという事。
この世の人々はいつも、この避け難い現実に突き当たり、いたずらに苦しみ悩むのである。しかし、仏の教えを受けた人は、避け難い現実を避け難いと知っているから、苦しみ悩む事も無い。
欲望の対象となる全てのものは、無常であり、それに執着することは苦しみである。また、そのように移り変わるものに、我も、我がものも無い。これはいつの時代も変わることのない、この世界のありのままの姿である。
迷いも苦しみも、そしてさとりも、全てのものは心から現れ、心によって作られる。
心は巧みな絵描きのように、様々な世界を描き出す。
仏の作る世界は、煩悩を離れているから清らかであり、人の作る世界は、煩悩によって汚れている。人が既に起こったことを嘆き、また、まだ起こっていないことを恐れ不安がるのは、心に煩悩があるからです。
全てのものは心を主とし、心から成り立っている。
汚れた心で発言し行動すれば、その人に苦しみが付き従い、清らかな心で発言し行動すれば、その人に幸せが付き従うのは、ちょうど、引く牛に車が従うようなものである。
この世の全てのものは、みな縁によって現れたものであるから、元々違いはない。違いを見るのは、人々の偏見である。
元々空には東西の区別がないのに、人々は東西の区別をつけ、東だ西だと執着する。
欲に目を塞がれた人々は、財産に、名誉に、そして命にと、あらゆるものに執着し、偏見に囚われて、物事を正しく見ることができない。
ここに一人の旅人がいて、目の前にある大きな川を見て、こう思った。
「川を渡った向こう岸は、大変安らかに見える」
そこで旅人は筏を作り、向こう岸へ辿り着いた。そのため旅人は、このように思った。
「この筏は、大変役に立った。ここに捨てることなく、肩に担いで、この先も持って行こう」
この旅人の行動は、正しいと言えるでしょうか。
これは、正しいことさえ執着すべきではなく捨てなければならない、ましてや正しくないことはなおさらである、ということを示した例えです。
この世は夢や幻のようであり、全てのものは遠くに見える陽炎のようなものである。
執着を離れて、偏見を離れれば、全てのものは幻のようであり、捨てるのも取るのも虚しいと知れば、この世界のありままの姿が見えてくる。
仏の教えを聞く者として、避けなければならない二つの偏った生活がある。
一つは、欲に負けて欲にふける卑しい生活であり、もう一つは、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。
この二つの偏った生活を離れて、知恵を得てさとりをひらく中道の生活がある。
例えば、川を流れる一本の木が、右の岸にも左の岸にも近づかず、川底にも沈まなければ、やがて必ず海へ辿り着く。このように、両極端に囚われず流れに身を任せるのが、中道の生活である。
善も悪も、不幸も幸せも、清らかさも汚れも、元々別なものではない。
蓮の花が清らかな高原には咲かず、かえって泥の中に咲くように、さとりの種もまた、迷いや苦しみや欲の中から花を咲かせる。
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