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この人間世界は、苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも病も死も、みな苦しみである。

 

恨みある者と会わなければならないことも、愛する者と別れなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。

 

誠に執着を離れない人生は、全て苦しみである。

 

この人生の苦しみがどうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩(ぼんのう)から起こることは疑いない。

 

その煩悩(ぼんのう)を突き詰めていけば、生まれつき備わっている激しい欲望に根ざしていることが分かる。

 

このような欲望は、生に対する激しい執着を元としていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死さえ願うようにもなる。

 

この煩悩(ぼんのう)の根本を残りなく滅ぼし尽くし、全ての執着を離れれば人間の苦しみも無くなる。この苦しみから逃れようとする者は、誰でも煩悩(ぼんのう)を断ち切らなければならない。

 

仏の教えを実践する者は、例えば灯火を掲げて暗い部屋に入るようなものである。闇はたちまちに去り、部屋は明るさで満たされる。

 

そうしてさとりを得た人は、知恵の灯火を得て、どんな人に対しても自在に教えを説くことができる。

 

人々の苦しみには原因があり、人々のさとりには道があるように、全てのものは皆、縁によって生まれ、縁によって滅びる。

 

雨が降るのも、風が吹くのも、花が咲くのも、葉が散るのも、全ては縁によって生じ、縁によって滅びる。

 

この体は両親を縁として生まれ、食物によって維持される。この心は、知識と経験によって育つ。だからこの体もこの心も、縁によって成り立ち、縁によって変わる。

 

例えば網の目が、互いに繋がり合って網を作るように、この世界の全てのものは、繋がり合って存在している。一つの網の目が、それだけで存在している訳ではない。

 

花は咲く縁が集まって咲き、散る縁が集まって散る。ひとり咲き、ひとり散るのではない。全てのものが縁によって生じ、縁によって滅びるのであるから、ひとり存在するものも、常にとどまるものもない。

 

これは、永久不変の道理(どうり)である。

 

人々の苦しみは、どうして起こるのか。それは、人の心に執着があるからです。財産に名誉に快楽に、そして自分自身に執着する。

 

この世界には初めから様々な災いがあり、その上、老いと病と死とを避けることができないから、苦しみが尽きることはない。

 

しかし、それらも突き詰めてみれば、執着があるから苦しみとなるのであって、執着を離れれば全ての苦しみは跡形もなく消える。

 

さらに、この執着を突き詰めてみると、人々の心に無明(むみょう)(とん)(あい)があることが分かる。

 

無明(むみょう)とは、仏の説いた道理(どうり)に暗く、物事をあるがままに見れないことである。

 

(とん)(あい)とは、得ることができないものまで貪り、愛着することである。

 

ものを区別し優劣をつけるのは、この無明(むみょう)(とん)(あい)のはたらきである。そのために、よこしまな思いを抱き、欲に囚われて間違った行いをして、迷いと苦しみに身を投じるのである。

 

結局のところ苦しみの世界を生み出すのは、この心であり、さとりの世界もまた、この心から現れる。

 

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