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どのような時代の、どのような場所に、どのような個性を持って生まれるのか、それを選べる人は一人もいません。

 

なぜ私が私に生まれたのか、その理由さえ分からないまま、私達はそれぞれに与えられた命を生きています。

 

そうしてあっという間に時間は流れ、私達はそれぞれに命の終わりを迎えます。

 

この世に生まれて、生きて、死ぬとはどういうことなのか。お釈迦様は、次のように説いています。

 

この世界に、輪廻(りんね)因果(いんが)道理(どうり)があることは明白である。それは広く深いものであって、ただ仏だけが知っている。

善い行いは幸せをもたらし、悪い行いは苦しみをもたらす。

自分がした行為によって起こる結果は、自分自身が受けるのであって、誰もこれを代わってはくれない。

因果(いんが)道理(どうり)は必然である。

善い行いをする人は、より好ましい世界に生まれ変わり、ますますさとりに近づくのであり、悪い行いをする人は、より苦しい世界に生まれ変わり、ますます迷いの中へ沈むのである。

 

前世で少しばかり功徳(くどく)を積んだことにより、しばらくの間都合良く生きられたとしても、犯した悪は消えることなく、その人に付き従って次の世に至る。

そうして命が尽きてしまえば、その罪に引かれて行くべき所へ行くのである。

罪の報いは必然の道理(どうり)で、決して逃れることはできない。地獄(じごく)餓鬼(がき)畜生(ちくしょう)の世界を転々と巡り、計り知れない苦しみを受けるのである。

無量寿経(むりょうじゅきょう)より抜粋)

 

良い事も悪い事も、生まれる事も死ぬ事も、この世界で起こる全ての事は自業自得(じごうじとく)です。

(ごう)…行い、行為という意味。

 

輪廻(りんね)因果(いんが)道理(どうり)の中で、自分に生まれた理由さえ分からない私達は、どのように救われればいいのでしょうか。

 

正信偈(しょうしんげ)の27行目と28行目には、次のように書かれています。

 

凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)斉回入(さいえにゅう)

(にょ)(しゅう)()入海(にゅうかい)一味(いちみ)

 

凡聖(ぼんしょう)逆謗(ぎゃくほう)とは「凡夫(ぼんぷ)聖者(せいじゃ)()(ぎゃく)(ほう)(ぼう)の人」という意味であり、「全ての人」を指す言葉です。

凡夫(ぼんぷ)・・・煩悩(ぼんのう)に囚われ自らさとりをひらけない人。

()(ぎゃく)・・・仏教において最も重いとされる五つの罪。①母を殺す ②父を殺す ③聖者を殺す ④仏の体に傷をつける ⑤教団の和合を破壊し分裂させる。

謗法(ほうぼう)・・・仏の教えを非難する((そし)る)こと。

 

斉とは「等しい、揃う」、回入(えにゅう)とは「自力(じりき)を捨て他力(たりき)に任せる」「心が180度回ってガラリと変わる」という意味であり、「信心(しんじん)を得た」ことを指す言葉です。

 

(しゅう)(すい)とは「あらゆる川、全ての川」という意味です。

 

つまり正信偈(しょうしんげ)の27行目と28行目は、「どのような川の水も、海に入れば同じ塩味(一味)となるように((ごと)し)、念仏(ねんぶつ)の教えに出会えた全ての人は、信心(しんじん)を得て等しく救われる」と読むことができます。

 

私達はそれぞれに、生まれ方も、生き方も、死に方も違う人生を歩いています。

 

しかし、念仏(ねんぶつ)の教えを信じるのであれば、この一生を終えた後の命の行き先は、等しく極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に定まります。

そうして極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に往生すれば、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)によって、速やかにさとりをひらくことができます。

本願(ほんがん)・・・四十八個ある阿弥陀仏(あみだぶつ)が建てた誓い。

 

それが私達凡夫(ぼんぷ)の救われる道だと、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は教えているのです。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。