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お釈迦様は、人が苦しみから解放されるためには、出家をして僧侶となり、修行をしてさとりをひらく必要があると説きました。
一方で、出家をすることができない人にも、さとりをひらく道があると経典には説かれています。
このことは、正信偈の25行目と26行目に、次のように書かれています。
能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
一念とは「一筋に信じる」、喜愛とは「喜び愛でる」という意味です。
煩悩とは「物欲や性欲に代表される、私達を煩わせ悩ませる心のはたらき」、涅槃とは「さとり」という意味です。
つまり正信偈の25行目と26行目は、「念仏の教えを、能く信じて喜ぶ心が芽生えた(発生した)人は、自ら煩悩を断たず(不断)に、さとりをひらく(得る)ことができる」と読むことができます。
どのような宗派であっても、それが仏教である限り、その最終的な目的は「苦しみの原因である煩悩を断ち切って、さとりという心の平穏を手に入れること」です。
それではなぜ念仏を信じて喜ぶ人は、煩悩を断たずにさとりをひらくことができるのでしょうか。
お釈迦様は、次のように説明しています。
南無阿弥陀仏の念仏を聞いて信じ喜び、わずか一回でも念仏をする人は、阿弥陀仏の功徳によって大きな利益を得ることができる。
その利益とは、阿弥陀仏の国である極楽浄土に往生して、さとりをひらくことです。
もしこの教えを聞けたのなら、さとりをひらくまで決して後戻りをすることはないでしょう。
ただこの教えを信じ、生涯念仏を絶やすことなく、真っ直ぐに進みなさい。
(仏説無量寿経より抜粋)
念仏を信じて喜ぶ心が芽生えた時とは、極楽浄土に生まれることが定まった時であり、極楽浄土に生まれることが定まれば、さとりをひらくこともまた定まります。
このことを、親鸞聖人は「自ら煩悩を断たずに、さとりをひらくことができる」と教えているのです。
たとえ今の一生で、さとりをひらくことは難しくても、この一生を終えた後には、必ず阿弥陀仏が救い取ってさとりをひらかせてくれる。
そのように命の行き先に明かりが灯れば、必ず死ななければならない今の一生にも光が差して、迷わずに前を向いて歩いて行くことができるのではないでしょうか。
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