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私達は普段「利益(りえき)」という言葉を、儲けたお金や得をして手に入れた品物という意味で使っています。

 

仏教では、これを「利益(りやく)」と読みます。

 

「ご利益(りやく)」とは、本来「神仏(しんぶつ)が人々に与える恵み」を指す言葉です。

 

しかし、欲に弱い私達は「ご利益(りやく)」を、宝くじを当ててくれたり、恋人と出会わせてくれたり、受験に合格させてくれたりといった、自分にとって都合の良い結果を与えてくれるオマジナイのように思っているのではないでしょうか。

 

仏方が与える利益(りやく)について、お釈迦(しゃか)様は次のように説いています。

 

仏方はみな、大きな慈悲(じひ)の心で、迷いと苦しみの世界を生きる人々を哀れに思っています。

仏がこの世に現れるのは、そのような人々に教えを説いて、本当の利益(りやく)を与えたいと願っているからです。

無量寿経(むりょうじゅきょう)より抜粋)

 

釈迦(しゃか)様は、人が迷いと苦しみの世界を離れることができないのは、「ああしなければならない」「こうでなくてはならない」といった執着が、心にあるからだと説きました。

 

反対に「生きてもいいし死んでもいい」「有っても無くてもいい」というように、執着を捨てることができれば、心は安定し損得勘定に惑わされることなく、物事をあるがままに見る知恵が備わります。

 

これを「さとりをひらく」と言い、さとりをひらいた人を「仏」と呼びます。

 

人々を教え導いて、心の平穏(さとり)という本当の利益(りやく)を与えること。それが、仏方の共通の願いです。

 

釈迦(しゃか)様もまた、数限りない仏方の一人として、人々をさとりの道へ導くために、様々な教えを説きました。

 

その教えは実に多様で、言葉だけを見比べると、時には矛盾していると感じることもあるでしょう。

 

しかし大切なことは、仏教の目的はあくまでも「人々にさとりをひらかせること」であって、その目的を達成できるのであれば、さとりをひらくまでの教え方や道のりが、人によって違ったとしても問題はないということです。

 

執着心が強く矛盾だらけの私達にも教えが伝わるよう、仏方は様々な工夫をして、救いの手を差し伸べてくれます。

 

南無(なむ)阿弥陀(あみだ)(ぶつ)という念仏(ねんぶつ)功徳(くどく)によって、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)(おう)(じょう)し、さとりをひらくという教えもまた、仏方が遠い未来を生きる私達にも、さとりをひらく道が残るようにと願い、果てしなく長い間、創意工夫や取捨選択を繰り返した末に説かれたものです。

 

このことを、お釈迦(しゃか)様は次のように説いています。

 

私がこの世を去った後、時間の経過と共に、私が説いた様々なさとりへの道は、次第に失われていくでしょう。

しかし、念仏(ねんぶつ)の教えは、どれだけ時間が流れても、人々をさとりの道へ導き続けるでしょう。

無量寿経(むりょうじゅきょう)より抜粋)

 

仏方の共通の目的について、正信偈(しょうしんげ)の21行目と22行目には、このように書かれています。

 

如来(にょらい)所以(しょい)(こう)出世(しゅっせ)

唯説(ゆいせつ)弥陀(みだ)本願(ほんがん)(かい)

 

如来(にょらい)とは「仏方」、所以(しょい)とは「ゆえん、わけ」、(こう)(しゅつ)とは「仏が現れる」という意味です。

 

弥陀(みだ)とは「()弥陀(みだ)(ぶつ)という仏の名前」、本願(ほんがん)とは「()弥陀(みだ)(ぶつ)念仏(ねんぶつ)功徳(くどく)によって、全ての人を等しく救うと誓った約束」を指す言葉です。

 

つまり正信偈(しょうしんげ)の21行目と22行目は、「お釈迦(しゃか)様をはじめ、仏方がこの世に現れるわけは、ただ、広く深い海に例えられる()弥陀(みだ)(ぶつ)本願(ほんがん)を人々に説くためです」と読むことができます。

 

どのような時代の、どのような人であっても、仏教に救いを求めるのであれば、その人に相応しい教えを説いて、必ずさとりをひらかせる。

 

それが、仏方の共通の願いであり、目的なのでしょう。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。