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私達は常に、何かしらの願いを持って生きています。

 

歌手になりたい、起業したいといった大きなものから、話題のスイーツが食べたい、家事を楽にしたいといった身近なものまで、生きている限り私達の暮らしから願いが尽きることはありません。

 

そして、それらの願いが叶った時、私達は願いの大きさに応じた満足感を得て、生きていることの喜びを感じます。

 

反対に、願いが叶わないと知った時、私達は願いの大きさに応じた挫折感を味わい、生きていることの虚しさを感じます。

 

しかし人生というものは、自分の思い通りになることより、自分の思い通りにならないことの方が、遥かに多いものです。

 

仮に願いが叶って、憧れの暮らしを手に入れたとしても、時が過ぎれば体は衰え、やがては全てを残して一人死んでいかなければなりません。

 

どれだけ恵まれた人にも、いつかは必ず「願いが叶わなくなる日」や「人生が虚しいと感じる時」がやって来ます。

 

このような現実に、私達はどう向き合っていけばいいのでしょうか。

 

(てん)(じん)菩薩(ぼさつ)は主著である「浄土論(じょうどろん)」の中で、次のような言葉を残しています。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)のはたらきに出会って、人生を虚しく過ごす人はいません。

阿弥陀仏(あみだぶつ)功徳(くどく)は、まるで宝の海のように念仏(ねんぶつ)する人の心を満たして、速やかに満足させるからです。

 

私達から虚しさを取り除き、満足を与える阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)について、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、次のような言葉を残しています。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)に出会い、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)を願って「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と念仏(ねんぶつ)する心が芽生える時、阿弥陀仏(あみだぶつ)は私達を救い取り、決して見捨てることがありません。

 

念仏(ねんぶつ)の救いには、年齢はもちろん、善人(ぜんにん)悪人(あくにん)の区別はありません。ただこれを信じて念仏(ねんぶつ)をするかどうかが問題なのです。

なぜなら念仏(ねんぶつ)とは、目先の欲に心を奪われて、日々、罪や悪を重ねている私達を救うための教えだからです。

 

そのため念仏(ねんぶつ)する人には、それ以外のどのような善も必要ありません。満足に修行もできない私達にとって、念仏(ねんぶつ)より優れた善は存在しないからです。

また、どのような悪も恐れる必要はありません。念仏(ねんぶつ)の救いを妨げる程の悪は存在しないからです。

歎異抄(たんにしょう)より抜粋)

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)の中で、念仏(ねんぶつ)する人が命を終える時には、必ず極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救い取り、さとりをひらかせると約束しています。

 

それはつまり煩悩(ぼんのう)にまみれた私達が、お釈迦(しゃか)様と同じ仏という立場になれるということです。

 

そのような途方もない善果(ぜんか)(善い結果)に出会えた人生を、虚しく感じる人はいないのでしょう。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。