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前回、「念仏(ねんぶつ)とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)が定めた行(修行)であり、これを実践する人は、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)に叶っているから、誰もが等しく極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれることができるのです」とお伝えしました。

 

それでは極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれた後、私達はどうなるのでしょうか。

 

正信偈の19行目と20行目には、このように書かれています。

 

(じょう)(とう)覚証(がくしょう)大涅槃(だいねはん)

必至(ひっし)滅度(めつど)(がん)成就(じょうじゅ)

 

(とう)(がく)とは「仏に等しい知恵を得た人」「さとりをひらく一歩手前の人」、涅槃(ねはん)とは「さとり」という意味です。

 

必至(ひっし)滅度(めつど)の願とは「第十一願の別名」であり、必至(ひっし)とは「必ず至らせる・そうさせる」、滅度(めつど)とは「さとりをひらく」という意味です。

 

つまり正信偈の19行目と20行目は、「極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれた後、(とう)(がく)という立場になり(()り)必ずさとりをひらくことができるのは、阿弥陀仏(あみだぶつ)が第十一願を完成(成就(じょうじゅ))させたことよって保証されています」と読むことができます。

 

誰もが等しくさとりをひらくことができる根拠となっている第十一願には、次のことが約束されています。

 

【第十一願】

私が仏に成る時、私の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に住む全ての人が正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、必ずさとりをひらくことができないようなら、私は決してさとりをひらきません。

 

正定聚(しょうじょうじゅ)とは「さとりをひらくことが定まった人」という意味であり、「不退転(ふたいてん)の位」とも呼ばれます。

 

極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれた人は、阿弥陀仏(あみだぶつ)の願い通りに必ずさとりをひらくことができるから、二度と迷いと苦しみの世界に退いたり転がり落ちたりすることがありません。

 

そのため、これを不退転(ふたいてん)と呼びます。

 

このような本願(ほんがん)のはたらきについて、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)の師匠である(ほう)(ねん)上人(しょうにん)は、次のような言葉を残しています。

 

四十八個ある本願(ほんがん)の全ての末尾には、「もしも願いが実現しなければ、さとりをひらいて仏に成ることない」と記されています。

しかし、阿弥陀仏(あみだぶつ)は既にさとりをひらいて仏に成っています。これで分かるでしょう。一つ一つの本願(ほんがん)は、決して虚しく設けられている訳ではありません。

私達が南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)をすれば、必ず極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれることができるのです。

選択(せんちゃく)本願(ほんがん)念仏(ねんぶつ)(しゅう)より抜粋)

 

この一生を終えた後には、迷いと苦しみの世界を離れ、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれて、さとりをひらくことができる。

 

そのように命の行き先が定まっていれば、たとえ今は迷いと苦しみの世界の真っ只中にいても、前を向いて歩いて行く勇気が湧いてくるのではないでしょうか。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。