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釈迦(しゃか)様は、このように仰いました。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)が、清らかで安らかな場所であり、そこに住む人々がみな、優れた知恵を得ていることは、言葉で言い尽くすことができません。

 

それなのにどうして人々は、この道が仏の願いに叶っていて、誰もが等しくさとりをひらける道だと信じ、その功徳(くどく)を身に備えたいと願わないのでしょうか。

 

それぞれが努め励んで、この国に生まれたいと願うべきです。

 

そうすれば、迷いと苦しみに満ちたこの世を離れ、安らぎに満ちた極楽(ごくらく)浄土(じょうど)(おう)(じょう)し、さとりをひらくことができるでしょう。

 

極楽(ごくらく)浄土(じょうど)(おう)(じょう)しやすい国であるにも関わらず、()く人は(まれ)です。

 

しかしその国は、間違いなく仏の願いのままに全ての人々を受け入れてくれます。

 

ところが世間の人々は浅はかで、誰もがみな、急がなくてよいことで言い争い合い、激しい悪と苦しみの中でアクセクと働き、それによってやっと生計を立てているという有り様です。

 

身分の高い人も低い人も、貧しい人も裕福な人も、年齢や性別を問わず、みな金銭のことで悩んでいます。

 

それがあろうと無かろうと、憂い悩むことに変わりはなく、アレコレと嘆き苦しみ、後先のことを色々と心配し、いつも欲に追い回されて少しも安らかな時がありません。

 

田畑があれば田畑に悩み、家があれば家に悩み、家族や家畜、金銭や衣食、日用品に至るまで、あればあるで悩み、それらのものが無くなってしまわないかと心配し、何度もため息をついては嘆き恐れています。

 

思いがけない災害や盗難等の犯罪、あるいは恨みを持つ人や借りのある相手によって、それらのものが奪い取られてしまうと、たちまち激しい怒りが起こり、心を取り乱して落ち着くことがない。

 

人が命を終える時には、全てのものを残して一人この世を去るのであって、何も持っていくことはできないのに、いつまでも怒りを抱えて少しも心が晴れる時がありません。

 

身分の高い人や裕福な人にも、このような憂いがあります。その心配は実に様々で、悩み苦しむばかりの痛ましい生活を続けています。

 

一方で貧しい人や身分の低い人は、いつも物が無くて苦しんでいます。

 

田畑が無ければ田畑が欲しいと悩み、家が無ければ家が欲しいと悩み、家族や家畜、金銭や衣食、日用品に至るまで、無ければ無いで悩み、それらのものが欲しいと心を痛め続けています。

 

たまたま一つが得られると他の一つが欠け、アレがあればコレが無いという有り様で、結局のところ、全てを手に入れるまで満足することができません。

 

そうして、やっと全てのものが揃ったと思っても、時が経てば一つ二つと欠けていって、また同じように心を痛めます。

 

思い悩むばかりの毎日に、身も心も疲れ果て、何をしていても安まることのない痛ましい生活を続けています。

 

時には、その苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえあるという有り様です。

 

善い行いをせず、功徳(くどく)を積むこともなく、寿命が尽きてしまったら、その行いに応じた苦しい世界に落ちていかなければなりません。

 

人々は互いに親しみ合い、憎み妬んではいけません。持っている物は互いに融通し合い、争いを起こしてはいけません。

 

心に怒りや憎しみが起きれば、この世ではわずかな火種であっても、後の世には次第に激しい炎となり、ついには自分自身の身を焼いて激しい苦しみを受けることになります。

 

自分がした行いに応じた結果は、自分自身が受けなければならないのであって、誰もこれを代わってはくれません。

 

それなのにどうして人々は、世間の雑事に振り回されて、善い行いをしようとしないのでしょうか。

 

極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生れたいと願うなら、迷いと苦しみに満ちたこの世を離れ、さとりをひらくことができるのに、どうして往生(おうじょう)を願わないのでしょうか。

 

一体、この一生に何を期待して、どのような楽しみを望んでいるのでしょうか。

 

このような人々は、善い行いをすれば善い結果が得られ、修行をして功徳(くどく)を積めばさとりがひらけることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、 他人に分け与えれば幸福が得られることを信じない。善悪(ぜんあく)因果(いんが)道理(どうり)を信じないで、そんなものは存在しないと心を固く閉ざし、あくまで認めようとしない。

 

自分の見方こそが正しいと思い込み、それをかわるがわる見習うから、先の人も後の人も同じ様に間違える。

 

このようにして次々と誤った考えを受け継いでいくから、善悪(ぜんあく)因果(いんが)道理(どうり)を知ることができず、それを語り聞かせる人もいない。

 

善いことも悪いことも、全ては自分がしてきた行いによって起こるのに、誰一人としてそれはなぜかと考えることもない。

 

それぞれが目先の快楽を追うばかりで、欲望に心を奪われて怒り狂い、金銭や性欲を貪っている様は、まるで餓えた狼のようです。

 

そうこうしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまえば、もはやどうすることもできません。

 

世間は慌ただしく、何一つ頼りにすべきものはないのに、身分の高い人も低い人も、 貧しい人も裕福な人も、みなアクセクと世渡りのために苦しんでいます。

 

それぞれがよこしまな思いを抱いて、外にはその思いを見せず、みだりに悪事を犯しては毒を振りまいていますが、結局のところ、その毒に汚れた水を飲むのは自分自身です。

 

悪い行いは必ず悪い(えん)となり、その罪が行き着くところまで行くと、突然に命を奪われて、より苦しい世界に落ちていかなければなりません。

 

そうして果てしなく長い間、迷いと苦しみの世界で生まれ変わり死に変わりを繰り返し、浮び出ることがない。

 

その痛ましさは、とても言葉で言い表すことができません。実に哀れむべきことです。

 

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