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阿弥陀仏の本願は、全部で四十八個あります。
その中の第十七願で、阿弥陀仏は次のような約束をしています。
【第十七願】
私が仏に成る時、数限りない仏方がみな、南無阿弥陀仏の念仏をほめたたえないようなら、私は決してさとりをひらきません。
仏教と言っても現代には多くの宗派があり、教え方や信じ方は宗派によって異なります。
しかし、それが仏教である限り、その最終的な目的はさとりをひらいて仏に成ることです。
お釈迦様は、人が迷いと苦しみから離れることができないのは、欲や怒りに代表される煩悩が心にあるからだと教えました。
反対に煩悩を捨てることができれば、心は安定し、損得勘定に惑わされることなく、物事をあるがままに見る知恵が備わります。
これを「さとりをひらく」と言い、さとりをひらいた人を「仏」と呼びます。
お釈迦様の時代には、教えの通りに修行をして、さとりをひらいた人が大勢いたと伝えられています。
しかし、お釈迦様がこの世を去り、仏という指導者もいない現代において、自分の力で修行をしてさとりをひらける人が、一体どのくらいいるのでしょうか。
南無阿弥陀仏の念仏は、普通の修行には耐えられず、自ら功徳を積むことができない人までを広く救い、苦しみを離れさせ安楽を与えます。
そのため数限りない仏方はみな、南無阿弥陀仏の念仏をほめたたえているのです。
阿弥陀仏は、全ての人に救いの光が届くよう、自らの功徳をたった6文字の念仏にしました。
正信偈の11行目から15行目に書かれているのは、阿弥陀仏の救いの光をほめたたえている言葉達です。
普放無量無辺光
無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光
不断難思無称光
超日月光照塵刹
たとえば、阿弥陀仏の救いは広大で思い計ることができない(救う量に上限が無い)から無量と呼び、その光の行き届かない場所が無い(辺一帯を照らす)から無辺と呼び、その救いの妨げ(障碍)になるものが無いから無碍と呼びます。
一切群生蒙光照
続く16行目の一切とは「ことごとく」、群生とは「全ての命」、蒙るとは「身に受ける」という意味です。
つまり正信偈の16行目は、「全ての命はことごとく、阿弥陀仏の救いの光に照らされ、その功徳を身に受けています」と読むことができます。
私達が求めるのであれば、念仏の救いはどんな時も、すぐ手の届く場所にあります。
阿弥陀仏の「迷い苦しむ人々を救いたい」という願いは、私達一人一人にかけられているのであって、その救いの対象でない人など一人もいないのです。
※過去記事は、こちらにまとめてあります。
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SUMITA TOMOYUKI@suraimu_itigou私達が求めるのなら、念仏の救いはどんな時も、すぐ手の届く場所にある阿弥陀仏の「迷い苦しむ人々を救いたい」という願いは、私達一人一人にかけられているのであって、その救いの対象でない人など一人もいません#正信偈第6回 普放無… https://t.co/S1WaRJwwIe
2023年02月28日 12:21