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浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)を全国に広めた第八代宗主(そうしゅ)蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)は、人の死についてこのような言葉を残しています。

 

世間の有り様を見ていると、人の生き死に程儚いものはありません。

人生は幻のようであり、朝には血色の良い顔をしていても、夕暮れには死んでしまうものなのです。

吸った息が吐けなければ人は死に、どれだけ親しい人達が嘆き悲しんでも、どうすることもできません。

御文章(ごぶんしょう) 白骨(はっこつ)(しょう)より抜粋)

 

医療が進歩し、人生100年時代と言われても、人が必ず死ななければならないことに何ら変わりはありません。

 

たまたま死を迎えるのが今日か10年後かという違いがあるだけで、私達は死を避けて通ることができません。

 

仮に自分は生き残ったとしても、大切な人の死に直面し心が沈むこともあるでしょう。

 

このような現実に、私達はどう向き合えばいいのでしょうか。

 

お釈迦様の教えに、このような話が残されています。

 

ある村に、初めて子供を授かったキサーゴータミーという婦人がいました。

 

しかし、ある朝。最愛の我が子は、あっけなく息を引き取ってしまいます。

 

この現実を受け入れられないキサーゴータミーは、冷たくなった我が子を胸に抱えると、町行く人に聞いて回ります。

 

「誰か、この子を生き返らせる薬を持っていませんか?」

 

その姿に心を痛めた一人の村人が、「お釈迦様に相談してみなさい」と声をかけます。

 

お釈迦様の元を訪ねたキサーゴータミーは、「この子を生き返らせる薬を作って下さい」と願い出ます。

 

その様子を静かに見ていたお釈迦様は、このように答えます。

 

「分かりました。その子を生き返らせる薬を作ってあげましょう。その薬を作るためには、ケシの実が必要です。これから村の家々を訪ねて、ケシの実を貰ってきて下さい」

 

これで我が子が生き返る。はやる気持ちを抑えきれないキサーゴータミーに、お釈迦様がこう付け加えます。

 

「ただし死人を出したことのある家のケシの実では、薬は作れません。死人を出したことのない家から、ケシの実を貰ってくるのですよ」

 

キサーゴータミーは急いで村へ戻り、家々を訪ね歩きました。

 

当時、ケシの実はどの家庭にもある物でしたが、死人を出したことのない家など、どこにもありません。

 

「一昨年、祖父が他界しました」

「昨年、主人が亡くなりました」

「一週間前、息子が病死したばかりです」

 

聞こえてくるのは、そんな声ばかりです。

 

家々を訪ね歩き、疲れ果て、立ち尽くしたキサーゴータミーは、はたと気づきます。

 

大切な人を亡くした悲しみを背負っているのは、私だけではない。人は必ず死ななければならない。

 

キサーゴータミーは、冷たくなった我が子を埋葬すると、お釈迦様の元を訪ね、出家をして弟子になりました。

(ダンマパダアッタカターより抜粋)

 

どれほど仏教を聞いたとしても、大切な人の死が大きな悲しみであることに変わりはないでしょう。

 

しかし、それが大きな悲しみであるからこそ、私達は死という現実と真剣に向き合うことができるのではないでしょうか。

 

私達は、人が必ず死ななければならないと、知識の上では知っていても、それは遠い未来の話であって、まさか自分や自分の大切な人が今日死んでしまうとは夢にも思っていません。

 

そして明日になればまた、まさか今日死ぬことはないと思うのです。

 

生きている私達にとって都合の悪い死という問題を、どれだけ先送りにしていても、その日はある日突然、私達の元にやって来ます。

 

その時に命の行き先までを見失ってしまわないよう、お釈迦様は、修行をしてさとりをひらける人は修行をし、満足に修行ができない人は極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)を願って念仏をし、生死(しょうじ)の迷いと苦しみから離れなさいと教えました。

 

大きな悲しみに心が沈む時とは、仏の教えを真剣に聞くことができる大切な仏縁なのかもしれません。

 

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