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前回、「阿弥陀仏は、どのような時代を生きる、どのような人であっても分け隔てなく救い、必ずさとりをひらかせると本願の中で約束しています」とお伝えしました。
それでは、阿弥陀仏はどのようにして本願を完成させたのでしょうか。
正信偈の9行目と10行目には、このように書かれています。
五劫思惟之摂受
重誓名声聞十方
劫とは時間の単位であり、「約160Km(40里)四方もある巨大な石の上を、3年に一度だけ薄い布で拭いたとして、巨大な石が布の摩擦によって跡形もなく消滅するまでの期間」が一劫であると言われています。
(諸説あります)
五劫とは、その5倍の長さであり、果てしなく長い時間をたとえた言葉です。
思惟とは「深く考える」、摂受とは「全てを受け入れて救い取る」という意味です。
つまり正信偈の9行目は、「阿弥陀仏は、全ての人を等しく救うために、果てしなく長い間深く考えて、本願を完成させました」と読むことができます。
人間とは大変に身勝手なもので、立場が変われば言うことも変わります。
その日の体調や気分によって、別人のように言動が変わる人も少なくないでしょう。
ましてや、何をどう信じて生きるのかという大きな問題になれば、その信じ方は人それぞれ千差万別です。
そのような人々を等しく救うためには、どのような教えが必要なのか。
五劫という時間をかけて、数限りない仏方の救いの中から取捨選択を繰り返した阿弥陀仏は、最終的に「南無阿弥陀仏」というたった六文字の念仏を選び取ります。
そして、念仏する人が命を終える時には、必ず極楽浄土へ救い取り、等しくさとりをひらかせるという誓いを建てます。
このことから本願を「五劫思惟の願」と言います。
続く10行目の重誓とは「重ねて誓う」、名声とは名号とも言い「南無阿弥陀仏の念仏」のことです。
十方とは「全ての方角」を指し「世界の隅々まで」という意味です。
つまり正信偈の10行目は、「本願を完成させた阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏の念仏を世界の隅々まで聞こえさせようと、重ねて誓いを建てました」と読むことができます。
賢い人や知識のある人、仏教を学んだ人にしか通じない難しい教えによって、全ての人を等しく救うことは難しいでしょう。
命を終える間際、生涯でたった一回の念仏であっても、念仏に救いを求めるのであれば、必ず救う。
阿弥陀仏は、そう約束しているのです。
※過去記事は、こちらにまとめてあります。
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SUMITA TOMOYUKI@suraimu_itigou
身勝手な私達を等しく救うためには、どのような教えが必要なのか五劫という時間をかけて、数限りない仏方の救いの中から取捨選択を繰り返した阿弥陀仏は、最終的に南無阿弥陀仏というたった六文字の念仏を選び取ります【第5回】正信偈 五… https://t.co/xMH8RKQmMG
2023年01月17日 12:23