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前回、「菩薩ぼさつとは修行僧の総称であり、法蔵ほうぞうとは阿弥陀仏あみだぶつの修行僧時代の名前です」とお伝えしました。

 

そして正信偈(しょうしんげ)の3行目と4行目は、「法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)がさとりをひらいて仏に成る時、法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)()自在(じざい)王仏(おうぶつ)という仏の所にいました(在した)と読むことができます」とお伝えしました。

 

それでは、法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)はさとりをひらくために、()自在(じざい)王仏(おうぶつ)の元で何をしていたのでしょうか。

 

正信偈(しょうしんげ)の5行目と6行目には、このように書かれています。

 

()(けん)諸仏(しょぶつ)浄土因(じょうどいん)

国土(こくど)人天(にんでん)()善悪(ぜんまく)

 

()(けん)とは、よく見るという意味です。

 

何をよく見るのかと言えば、諸仏(しょぶつ)浄土(じょうど)(いん)国土(こくど)人天(にんでん)善悪(ぜんまく)です。

 

諸仏(しょぶつ)浄土(じょうど)(いん)とは、たくさんの(諸々の)仏方の国(浄土(じょうど))が作られた原因という意味です。

 

国土(こくど)人天(にんでん)善悪(ぜんまく)とは、仏方の国土(こくど)に住む人々(人間と天人(てんにん))の、善いところも悪いところも全部という意味です。

 

なぜ法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)は、諸仏(しょぶつ)浄土(じょうど)(いん)国土(こくど)人天(にんでん)善悪(ぜんまく)をよく見る必要があったのでしょうか。

 

このことは、無量寿経(むりょうじゅきょう)という経典に説かれています。

 

()自在(じざい)王仏(おうぶつ)の側で仏の徳をほめたたえた法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)は、続けて自身の願いをこのように述べます。

 

私が仏に成る時には、生死(しょうじ)の迷いに苦しむ全ての人々を救いたい。

 

たとえガンジス川の砂の数ほどの仏方がいて、その数だけ仏方の国があり、そこに計り知れない数の人々が暮らしていたとしても、私の救いの光が行き届くように、世界の隅々までを照らし尽くしたい。

 

そうして私の国を、誰もが等しくさとりをひらくことのできる尊いものにしたい。

 

さまざまな国の人々が、私の国に生まれたいと願うのであれば、その願いを叶えさせ、大きな安らぎを与えたい。

 

この願いを果たすために、どのような修行をするべきか教えて下さい。

 

この願いを聞き終えた()自在(じざい)王仏(おうぶつ)は、法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)に「それは自分自身で考えるべきことです」と答えます。

 

さらに()自在(じざい)王仏(おうぶつ)は、その検討材料として、数限りない仏方の国の成り立ちとそこに住む人々の善悪(ぜんあく)を、法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)に説いて聞かせます。

 

これを聞いた法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)は、後に「念仏(ねんぶつ)という修行によって、全ての人を等しく救う」という浄土(じょうど)の教えを完成させ、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏に成り、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)という国を開きます。

 

私達が唱えるたった一言の念仏(ねんぶつ)にも、このような阿弥陀仏(あみだぶつ)の願いが込められているのです。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。