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阿弥陀仏(あみだぶつ)は、信心(しんじん)を得た人に必ずさとりをひらかせるということを、四十八個ある本願(ほんがん)の中の第十一(だいじゅういち)(がん)で、次のように約束しています。

 

第十一(だいじゅういち)(がん)

私が仏に成る時、私の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に住む全ての人が正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、必ずさとりをひらくことができないようであれば、私は決してさとりをひらきません。

 

これを、必至滅度(ひっしめつど)の願と言います。

 

滅度(めつど)」とは「さとり」という意味であり、必ずさとりに至らせるという約束であるから、必至滅度(ひっしめつど)の願と言うのです。

 

この約束が、煩悩(ぼんのう)にまみれた凡夫(ぼんぷ)にも、さとりをひらく道が残されている証です。

 

この世では、どのような場所に、どのような容姿や能力を持って生まれ、その一生でどのような苦しみや楽しみを受けるのかは、人それぞれ千差万別です。

 

それらの結果は、その人がこれまでにしてきた行為を原因として起こります。

 

原因となる行為が人の数だけ異なるから、受ける結果もまた人の数だけ異なるのです。

 

同じように、信心(しんじん)を得るまでの過程は人それぞれであって、一概に「こうでなければならない」と決めることはできません。

 

しかし、信心(しんじん)を得た後は、みな等しく極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に往生するのであって、その結果には何の違いもありません。

 

結局のところ、浄土(じょうど)の教えが伝わり、念仏(ねんぶつ)という修行によって、凡夫(ぼんぷ)信心(しんじん)を得て、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)(おう)(じょう)し、さとりをひらくという結果が起こるのは、全て阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を原因としているのです。

 

原因となる本願(ほんがん)が同じであるから、それによって起こる結果もまた同じなのです。

 

煩悩(ぼんのう)まみれの救い難い凡夫(ぼんぷ)が、さとりをひらいて、お釈迦(しゃか)様と同じ仏という立場に成れるのですから、不可思議(ふかしぎ)としか言いようがありません。

 

美しい蓮の花が泥の中に咲くように、信心(しんじん)の花は煩悩(ぼんのう)という泥の中に咲きます。

 

仏方が救おうとしているのは、愚かで哀れな全ての凡夫(ぼんぷ)であって、才能に溢れた一部の人々ではありません。

 

念仏(ねんぶつ)不可思議(ふかしぎ)なはたらきを信じられない人は、自分の中の常識や価値観に執着し、それが正しいと思い込んでいるから、自分の理解の範疇を超えた仏の知恵を、素直に聞くことができないのでしょう。

 

(てん)(じん)菩薩(ぼさつ)は、広大な阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)一心(いっしん)に信じることを勧め、曇鸞(どんらん)大師(だいし)は、私達が極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に往生してさとりをひらくことも、さとりをひらいた私達が、今度は自らが仏として後の世の人々を救おうとすることも、全ては阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)のはたらきよることを明らかにしました。

 

仏の知恵とは、そのように不可思議(ふかしぎ)なものであって、とても私達の頭の中に収まるようなものではありません。

 

私達凡夫(ぼんぷ)はただ、仏の知恵を仰いで、その教え通りに救われるべきです。

 

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本内容はあくまでも、現代の人にも通じるように、原文を訳した私訳です。

 

少しでも関心を持って頂けたのであれば、浄土系の各宗派が発行している専門書に目を通すことを、お勧めします。

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※過去記事は、こちらにまとめてあります。