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中国で浄土の教えを確立した善道大師は、主著である観経疏の中で、私達凡夫が信心を得て極楽浄土へ往生するまでの過程を、二河白道という例えにして説明しています。
それは、次のようなものです。
一人の旅人が、果てしなく長い道のりを西に向かって歩いていました。
この旅人が荒野に差しかかった時、その姿を見つけた盗賊や獣達は「これは絶好の獲物だ」と思い、一斉に襲いかかってきました。
驚いた旅人は、慌てて西の方角へ走り出します。
しばらくすると、旅人の目の前に大きな河が現れます。
その河の南側は火の河であり、北側は水の河です。
中央には人ひとりがやっと通れる程の白い道が、遥か向こう岸まで続いています。
しかし、その道には燃え盛る炎と荒れ狂う波が交互に打ち寄せて、少しも止む様子がありません。
この光景に恐れおののいている間にも、盗賊や獣達は、みるみる旅人に近づいてきます。
そこで旅人は、このように考えます。
私は今、引き返しても、この場に留まっても、前に進んでも死んでしまうだろう。
どうしても死を免れないのであれば、むしろこの道を辿って前に進もう。
すでに道があるのだから、私より先に渡りきった人がいるに違いない。
そうして旅人が一歩踏み出すと、東の岸から「迷うことなく、この道を進みなさい」と勧める声がします。
同時に、西の岸から「真っ直ぐにこちらへ来なさい。私があなたを守り、必ず河を渡らせてみせましょう」と呼ぶ声がします。
二つの声に励まされた旅人は、疑いも恐れも捨てて白い道を歩き始めます。
すると、東の岸から盗賊達が「そんな危ない道を渡りきれるはずがない。俺たちはお前を殺そうとしている訳でない。悪いようにはしないから戻って来い」と声を上げて、旅人を呼び止めます。
しかし、二つ声に励まされた旅人が、振り向くことはありません。
やがて旅人は西の岸に辿り着き、あらゆる苦しみを離れた安楽な世界に住む人々の仲間入りを果たすのです。
以上が、二河白道という例えです。
ここで言われている旅人とは、私達凡夫を指します。
河の手前にある東の岸とは、迷いと苦しみに満ちたこの世を指し、河を渡りきった先にある西の岸とは、安らぎに満ちた極楽浄土を指します。
盗賊や獣達とは、他の命を奪わずには生きることができない愚かで哀れな全ての命を指し、仮に他の命を奪い生き残ったとしても、やがては必ず死んでいかなければならないという現実を指します。
火の河とは私達の中にある怒りの心を指し、水の河とは貪りの心を指します。
白い道とは信心を指します。
東の岸から「この道を進みなさい」と勧める声とは、お釈迦様がこの世に残した教えを指し、西の岸から「こちらへ来なさい」と呼ぶ声とは、阿弥陀仏の本願を指します。
東の声を釈迦の発遣と言い、西の声を弥陀の招喚と言います。
私達はどこで何をしていても、東の岸にいる限り迷いと苦しみから離れることができません。
たまたま財産や才能や容姿に恵まれて、少しの間楽しく生きることができたとしても、やがては老い病み死んでいかなければなりません。
この世の楽しみが大きい人は、死ぬ時の苦しみも大きいことでしょう。
そのような現実に直面し、仏の教えに救いを求めたとしても、怒りや貪りの心は常に私達の目を眩ませて、信心の妨げとなります。
しかし、お釈迦様の教えに耳を傾けて、阿弥陀仏の本願を聞くことができたのであれば、疑いの心は去って、ただ一心に極楽浄土への往生を願う心が定まります。
このことを、善道大師は二河白道という例えにして教えているのです。
※過去記事は、こちらにまとめてあります。
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