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中国で浄土(じょうど)の教えを確立した善道(ぜんどう)大師(だいし)は、他力(たりき)信心(しんじん)を、深く信じる心と表現しました。

 

これを、(じん)(しん)と言います。

 

さらに善道(ぜんどう)大師(だいし)は、主著である観経疏(かんぎょうしょ)の中で、(じん)(しん)には次の二種類があると説明しています。

 

一つは、私達凡夫(ぼんぷ)は欲に弱く、目先の損得に心を奪われて、今もなお、悪を犯し罪を作り続けている存在であり、そのために迷いと苦しみの世界を離れることができずに、遥か遠い昔から生まれ変わり死に変わりを繰り返してきた愚かな身の上であって、自分の力でさとりをひらくことなど、とても叶わないと深く信じる心です。

 

もう一つは、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)は私達凡夫(ぼんぷ)を救うための教えであり、そのはたらきに身を任せていれば、必ず極楽(ごくらく)浄土(じょうど)(おう)(じょう)し、さとりをひらくことができると深く信じる心です。

 

一つ目の心を()(じん)(しん)と言い、二つ目の心を(ほう)(じん)(しん)と言います。

 

仏教において、()とは私達凡夫(ぼんぷ)を指し、(ほう)とは仏の説いた教えを指します。

 

善道(ぜんどう)大師(だいし)は、()(ほう)の二種類の(じん)(しん)が備わることによって、他力(たりき)信心(しんじん)は定まると教えています。

 

これを、二種(にしゅ)(じん)(しん)と言います。

 

昔の人は、これを井戸のつるべに例えて、「上がるつるべは落ちるつるべ、落ちるつるべは上がるつるべ」と表現しました。

 

つるべとは、縄などの先に付けて水を汲むための(おけ)のことです。

 

片方のつるべが()であり、もう片方のつるべが(ほう)です。

 

人生に迷い苦しんで仏の教えに救いを求めた凡夫(ぼんぷ)が、本願(ほんがん)を聞くことで(ほう)のつるべが満たされ、心の深いところへ落ちていけば、井戸の底に沈んでいた()のつるべは、自然と明るい所へ浮かび上がります。

 

そのようにして視野が広がると、私達凡夫(ぼんぷ)が本当はどのような姿をしているのか、その真実がはっきりと見えるようになり、仏の説いた教えは真実であったと、ますます信心(しんじん)は深まっていきます。

 

このことは、どちらか一方だけでは成立せず、()(ほう)の両方が作用することで、はじめて起こります。

 

これを、機法(きほう)一体(いったい)と言います。

 

そのようにして定まる心が、(じん)(しん)であり、他力(たりき)信心(しんじん)なのです。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。