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浄土(じょうど)の教えにおいて信心(しんじん)とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)から与えられる疑いのない心です。

 

これを、他力(たりき)信心(しんじん)と言います。

 

この信心(しんじん)を与えるため、阿弥陀仏(あみだぶつ)は「無量寿経(むりょうじゅきょう)」という経典(きょうてん)の中で、四十八個の約束をしています。

 

この約束を、本願(ほんがん)と言います。

 

その中で、至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願と呼ばれる第十八(だいじゅうはち)(がん)には、次のことが約束されています。

 

第十八(だいじゅうはち)(がん)

私が仏に成る時、全ての人が心から信じて、私の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれたいと願い、わずか十回でも南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)をして、もしも生まれることができないようであれば、私は決してさとりをひらきません。

ただし、()(ぎゃく)の罪を犯したり、仏の教えを(そし)る人だけは除かれます。

 

ここで「心から信じて」と言われている信心(しんじん)が、他力(たりき)信心(しんじん)であり、他力(たりき)信心(しんじん)を得ることが、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)するための正しい原因なのです。

 

この信心(しんじん)は、清らかな修行を重ね、計り知れない功徳(くどく)を積んだ阿弥陀仏(あみだぶつ)が、私達凡夫(ぼんぷ)に与える真実の心です。

 

そのため、この信心(しんじん)は崩れたり変形したりすることもなければ、偽りや疑いが混ざることもありません。

 

このような特徴を持った他力(たりき)信心(しんじん)を、(てん)(じん)菩薩(ぼさつ)は「一心(いっしん)」と表現しました。

 

一心(いっしん)とは、二心(ふたごころ)が無いという意味です。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)一心(いっしん)に聞けた時、凡夫(ぼんぷ)の心は喜びに満たされます。

 

そのような人は、仏が捨てなさいと言われるものを捨て、仏が実践しなさいと言われる修行を実践し、本願(ほんがん)(そう)(おう)するから、第十八(だいじゅうはち)(がん)で約束されている通りに極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)することができます。

 

仏が凡夫(ぼんぷ)に勧める修行とは、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)であり、ただ念仏(ねんぶつ)をして極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)を願う心が、一心(いっしん)であり、他力(たりき)信心(しんじん)なのです。

 

また、信じるという心は、二種類に分けることができます。

 

一つは、さとりをひらく道があると信じる心であり、もう一つは、その道によってさとりをひらいた人がいると信じる心です。

 

さとりをひらく道があるとだけ信じ、その道によって、現実にさとりをひらいた人がいることを信じないのは、一心(いっしん)に信じているとは言えません。

 

また、議論をして相手を言い負かしたり、他人よりも自分が優れていると主張したり、あるいは個人的な損得のために、仏の教えを信じていることも、一心(いっしん)に信じているとは言えません。

 

他力(たりき)信心(しんじん)とは、身分や性別、出家(しゅっけ)在家(ざいけ)、年齢や能力の違いよって分け隔てがあるものではなく、また犯した罪や、念仏(ねんぶつ)をした期間の長短や回数の大小を問うものでもありません。

 

ちょうど手のひらを返すように、凡夫(ぼんぷ)を転じて仏と成す浄土(じょうど)の教えは、念仏(ねんぶつ)をするだけという極めてたやすい教えであるから、傲慢で浅はかな人は、かえって疑いの心を起こすでしょう。

 

しかし、仏の知恵というものは、さとりをひらいた仏だけが知るものであって、凡夫(ぼんぷ)の知るところではありません。

 

そのため、阿弥陀仏(あみだぶつ)が本当に救ってくれるのかどうかということを、私達凡夫(ぼんぷ)が議論する必要はありません。

 

私達凡夫(ぼんぷ)にとって大切なのは、一心(いっしん)極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)を願うかどうかということだけです。

 

極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)を願う人は、よくよく自分の能力を考えて、何をどう信じるべきなのか、心に問い直して下さい。

 

さて、全ての人を等しく救うと誓った第十八(だいじゅうはち)(がん)に、「()(ぎゃく)の罪を犯したり、仏の教えを(そし)る人だけは除かれる」という条件がついていることを、疑問に思う人もいるでしょう。

 

()(ぎゃく)とは、親や修行者や仏を殺すことを指し、仏教で最も重い罪とされる行為です。

 

その()(ぎゃく)の罪を犯した人であっても、念仏(ねんぶつ)に救いを求めるのであれば、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)することができるということを、お釈迦(しゃか)様は「(かん)無量寿経(むりょうじゅきょう)」という経典(きょうてん)の中で説き、ただし、その立場は極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)する人の中で、最も下の位である下品下生(げぼんげしょう)であると続けています。

 

無量寿経(むりょうじゅきょう)では、()(ぎゃく)の罪を犯したり、仏の教えを(そし)る人だけは除かれるとし、(かん)無量寿経(むりょうじゅきょう)では、()(ぎゃく)の罪を犯した人にも救いの道があることを示す一方で、仏の教えを(そし)る人には救いの道が示されていません。

 

なぜ、このような違いが起こるのでしょうか。

 

ここで大切なことは、()(ぎゃく)とは過去に犯した罪であり、仏の教えを(そし)るとは現在進行形の罪であるという点です。

 

過去に罪を犯した人であっても、信心(しんじん)を起こすことはあるでしょう。しかし、今まさに仏の教えを(そし)っている人が、信心(しんじん)を起こすことはないでしょう。

 

また、()(ぎゃく)の罪とは、正しい教えを知らないことによって起こるものです。

 

仏方は、私達凡夫(ぼんぷ)の愚かさを知っているからこそ、第十八(だいじゅうはち)(がん)において、()(ぎゃく)の罪を犯したり、仏の教えを(そし)る人だけは除かれるという条件をつけて、私達を悪から遠ざけようとした上で、既に罪を犯した人であっても、信心(しんじん)を起こしたのであれば等しく救うと約束しているのです。

 

他力(たりき)信心(しんじん)とは、もう後がないという心によって定まるものです。まだ後があると思う心には、必ず雑念(ざつねん)が混ざり、そのために信心(しんじん)が定まらず、重い罪を犯すのです。

 

たとえば、(せみ)が夏に鳴くと知っているのは人だけで、(せみ)には夏も冬もありません。ただ、鳴くべき時に鳴いているだけです。

 

同じように、仏の知恵を知るのは仏だけで、私達凡夫(ぼんぷ)の及ぶところではありません。凡夫(ぼんぷ)においては、ただ念仏(ねんぶつ)をして心が他に移らなければ、それで良いのです。

 

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本内容はあくまでも、現代の人にも通じるように、原文を訳した私訳です。

 

少しでも関心を持って頂けたのであれば、浄土系の各宗派が発行している専門書に目を通すことを、お勧めします。

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