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限りない救いの光で私達を救おうとするために、無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)とも不可思議光(ふかしぎこう)如来(にょらい)とも呼ばれる阿弥陀仏(あみだぶつ)を、私、親鸞(しんらん)は心より信頼しています。この心を帰命(きみょう)と言い、南無(なむ)と言います。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)が、まだ法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)という名前の修行(しゅぎょう)(そう)だった頃のことです。

法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)は、()自在(じざい)王仏(おうぶつ)という名前の仏から、仏方の国の優劣と、そこに住む人々の善悪を聞きました。

 

そして、この上無く優れた「全ての人を等しく救う」という願いを建て、世にも希な「全ての人にさとりをひらかせる」という大きな誓いを起こしたのです。

 

五劫(ごこう)という長い間、考えに考え抜いた法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)は、全ての人を等しく救うための修行として、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)を選び取りました。

 

そして、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)十方(じっぽう)全ての世界に聞かせると、重ねて誓いを建てたのです。

 

そのようにして、さとりをひらいた阿弥陀仏(あみだぶつ)の放つ救いの光は、無量光(むりょうこう)無辺光(むへんこう)無碍光(むげこう)無対光(むたいこう)光炎(こうえん)(のう)清浄光(しょうじょうこう)歓喜光(かんぎこう)智慧光(ちえこう)不断光(ふだんこう)難思光(なんしこう)無称光(むしょうこう)超日(ちょうにち)月光(がっこう)という様々な言葉で(たた)えられています。

 

一切(いっさい)衆生(しゅじょう)は、全て阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いの光に照らされているのです。

 

南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)は、私達衆生(しゅじょう)阿弥陀仏(あみだぶつ)の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)するための正しい修行です。

 

このことは四十八個ある本願(ほんがん)の中で、至心(ししん)信楽(しんぎょう)(がん)と呼ばれる第十八(だいじゅうはち)(がん)に誓われています。

 

極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)した後は、涅槃(ねはん)とも呼ばれるさとりの境地(きょうち)に、自然(しぜん)と至ることができます。

 

このことは、必至滅度(ひっしめつど)(がん)と呼ばれる第十一(だいじゅういち)(がん)に誓われています。

 

釈迦(しゃか)様をはじめ、如来(にょらい)がこの世に出現(しゅつげん)するのは、(ただ)、広く深い海に例えられる阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を説くためです。

 

煩悩(ぼんのう)をはじめとする五濁(ごじょく)に汚れた(あく)()を生きる衆生(しゅじょう)は、お釈迦(しゃか)様の真実の教えである阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を信じるべきです。

 

信心(しんじん)を起こして南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)を喜ぶ人は、自分の力で煩悩(ぼんのう)を断ち切らなくても、涅槃(ねはん)を得ることができます。

 

凡夫(ぼんぷ)聖者(せいじゃ)も、仏の教えを(そし)る人も、本願(ほんがん)に出会えたのであれば、どんな川の水も海に入れば同じ塩味(しおあじ)となるように、みな等しく救われるのです。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いの光は、常に私達を(おさ)()(まも)ってくれています。

 

その光によって、無明(むみょう)という闇が破れても、(むさぼ)りや自己愛や怒りや憎しみの心は、雲や霧のように、常に真実の信心(しんじん)を覆っています。

 

しかし、たとえば日光が雲や霧に覆われていても、地上が真っ暗闇になることがないように、信心(しんじん)()て大いに喜ぶ人の心もまた、無明(むみょう)という闇に戻ることはありません。

 

そのような人は、あらゆる修行を超越した南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)のはたらきによって、()(あく)に満ちた世界を離れ、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)することが約束されているから、心が闇に沈まないのです。

 

善人であれ悪人であれ一切(いっさい)凡夫(ぼんぷ)が、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を聞いて信じるのであれば、仏方はその人を、広大で優れた教えをよく理解した人だと誉め、分陀(ふんだ)()()と呼ばれる汚れのない白い蓮の花のような人だと(たた)えてくれます。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)に基づく念仏(ねんぶつ)の教えは、よこしまな見方(みかた)しかできない傲慢な衆生(しゅじょう)が、信じることは実に難しい。

 

これは難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。

 

遥か西にあるインドの菩薩(ぼさつ)方や、中国や日本の高僧(こうそう)方は、お釈迦(しゃか)様がこの世に現れた正しい意志を(あらわ)して、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)は、私達衆生(しゅじょう)を救うための教えであるということを明らかにしました。

 

釈迦(しゃか)様は楞伽山(りょうがせん)という場所で、大衆に向かって、南インドに龍樹(りゅうじゅ)という名前の菩薩(ぼさつ)が現れて、人々の誤った物の見方(みかた)を打ち破り、この上無く優れた大乗(だいじょう)の教えを説いて、自らもまた、その教え通りに歓喜地(かんぎじ)という仏に成ることが約束された位につき、さとりという安楽(あんらく)な世界へ到達するだろうと仰いました。

 

龍樹(りゅうじゅ)菩薩(ぼさつ)は、自分の力で修行をしてさとりをひらくことは、遠い陸路を歩くように苦しく難しい道だと教え、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)のはたらきによってさとりをひらくことは、船旅のように楽しく易しい道だと教えました。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を記憶して心に念ずるのであれば、自然(しぜん)と、かつ速やかに、さとりをひらく身に定まるでしょう。

 

(ただ)、常に南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)(とな)え、全ての人を等しく救うと誓った阿弥陀仏(あみだぶつ)慈悲(じひ)の心に感謝し、その恩に応えるべきです。

 

(てん)(じん)菩薩(ぼさつ)は、主著である「浄土(じょうど)(ろん)」の中で、無碍光(むげこう)如来(にょらい)とも呼ばれる阿弥陀仏(あみだぶつ)帰命(きみょう)すると宣言しました。

 

(しゅ)多羅(たら)とも呼ばれる経典(きょうてん)に基づいて真実の教えを(あらわ)して、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を広く人々に伝えました。

 

(てん)(じん)菩薩(ぼさつ)は、人々の心を浄土(じょうど)へ向かわせて、一心(いっしん)にさとりを求める信心(しんじん)を起こさせるのは、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)の力によることを明らかにしました。

 

宝の海に例えられる本願(ほんがん)の功徳に救い取られれば、必ず極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)する人々の仲間に入ることを()られます。

 

蓮華蔵(れんげぞう)世界とも呼ばれる極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)すれば、真如(しんにょ)(すなわ)ちさとりをひらいた身になれるのです。

 

そうなれば、今まで苦しんできた煩悩(ぼんのう)の林も、まるで遊んでいるかのように行き来して、生死(しょうじ)に迷う人々を自由自在に救うことができるでしょう。

 

曇鸞(どんらん)大師(だいし)は、当時、中国にあった(りょう)という国の()(てい)が、常に曇鸞(どんらん)大師(だいし)という菩薩(ぼさつ)がいる方角に向かって礼拝(れいはい)していたと言われる人物です。

 

経蔵(きょうぞう)律蔵(りつぞう)論蔵(ろんぞう)三蔵(さんぞう)を深く学んだ菩提流支(ぼだいるし)という名前の修行僧から、浄土(じょうど)の教えを授かった曇鸞(どんらん)大師(だいし)は、それまで集めた不老(ふろう)長寿(ちょうじゅ)の法を説いた(せん)(ぎょう)を焼き捨てて、浄土(じょうど)の教えに帰依(きえ)しました。

 

曇鸞(どんらん)大師(だいし)は、菩提流支(ぼだいるし)から授かった浄土(じょうど)の教えの中から、(てん)(じん)菩薩(ぼさつ)浄土(じょうど)(ろん)を選び取り、その注釈(ちゅうしゃく)解説書(かいせつしょ)としてまとめました。

 

その解説書(かいせつしょ)の中で、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)する原因も結果も、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)のはたらきによることを(あらわ)しました。

 

そして、私達を極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ向かわせる往相(おうそう)と呼ばれるはたらきも、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)でさとりをひらいた私達を再びこの世へ向かわせて、人々を救わせようとする還相(げんそう)と呼ばれるはたらきも、全ては阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)である他力(たりき)によることを明らかにしたのです。

 

正定聚(しょうじょうじゅ)と言う必ず極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)できる身に定まるための原因は、(ただ)(ひと)つ、信心(しんじん)のみです。

 

煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)凡夫(ぼんぷ)でも、この信心(しんじん)を得たのなら、今の命が尽きた後には、生死(しょうじ)の迷いを離れ涅槃(ねはん)を得られることが、はっきりと分かるでしょう。

 

限りない光に照らされているために、無量(むりょう)光明土(こうみょうど)とも呼ばれる極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に必ず至ることができれば、どのような衆生(しゅじょう)であっても、(みな)、仏という身に成れるのです。

 

道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)は、自らの力で修行をする(しょう)道門(どうもん)の教えによって、さとりをひらくことは難しいという結論を出し、(ただ)浄土(じょうど)の教えによってのみ、さとりをひらくことができるということを明らかにしました。

 

そして、「あらゆる善を自らの力で修めることは難しいのだから、あらゆる善を満たした阿弥陀仏(あみだぶつ)名号(みょうごう)である南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)を、(もっぱ)らに(とな)えなさい」と人々に勧めました。

 

道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)は、心が純粋で、上部の言葉と内心が一致し、往生(おうじょう)する時まで、その状態が相続(そうぞく)されるという三つの特徴を持った真実の信心(しんじん)と、逆に、心が純粋でなく、上部の言葉と内心が一致せず、長続きしないという三つの特徴を持った()信心(しんじん)との違いを懇切丁寧に説きました。

 

そして、像法(ぞうほう)末法(まっぽう)滅法(めっぽう)のどの時代を生きる人々にも、浄土(じょうど)の教えが伝わることを願ったのです。

 

この一生で悪を(つく)り続けても、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)に出会えれば、安養界(あんにょうかい)とも呼ばれる極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)し、妙果(みょうか)とも呼ばれるさとりをひらくことができるのです。

 

善導(ぜんどう)大師(だいし)は、ただ一人、仏方の正しい意志を明らかにして、欲に弱く、心が定まらずに散らかってしまい、すぐに悪を犯してしまう全ての凡夫(ぼんぷ)を哀れんで、阿弥陀仏(あみだぶつ)名号(みょうごう)である南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)が、善い因縁(いんねん)となって、人々が極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救われることを願いました。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)という大きな智慧(ちえ)の海に入り、仏の教えを素直に聞く修行者は、金剛(こんごう)(しん)とも呼ばれる正しい信心(しんじん)を与えられ、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)(そう)(おう)した時に、喜びの一念(いちねん)に満たされます。

 

そのような人は、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)という経典(きょうてん)の中で、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)を願った韋提(いだい)()と同じく、喜ぶ心である()(にん)と、仏の教えを知る()(にん)と、その教えを信じる(しん)(にん)(さん)(にん)を得て、安楽(あんらく)な世界へ至ることができるのです。

 

源信(げんしん)僧都(そうず)は、お釈迦(しゃか)様が一代で説いた教えを広く世の中に開いて、安養(あんにょう)世界とも呼ばれる極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)することを一切(いっさい)の人々に勧め、自身もまた浄土(じょうど)の教えに帰依(きえ)しました。

 

源信(げんしん)僧都(そうず)は、(もっぱ)らに南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)をする信心(しんじん)は、阿弥陀仏(あみだぶつ)から与えられた他力(たりき)による心であるから、信じるところが深く、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)することができると説き、それ以外の修行をする信心(しんじん)は、自らの力を頼みとする心であるから、信じるところが浅く、仮の浄土(じょうど)にしか往生(おうじょう)することができないと説きました。

 

極めて罪の重い悪人は、(ただ)念仏(ねんぶつ)をするべきです。

 

源信(げんしん)僧都(そうず)は自身のことを、「私もまた、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)(おさ)()られているけれど、煩悩(ぼんのう)が私の眼の差し障りとなって、真実を見ることができません。しかし、阿弥陀仏(あみだぶつ)の大いなる慈悲(じひ)の光は、そんな私を常に照らし続けてくれているのです」と告白しています。

 

私、親鸞(しんらん)の師匠であり、(げん)(くう)上人(しょうにん)とも呼ばれる(ほう)(ねん)上人(しょうにん)は、真実の仏教を明らかにし、善人も悪人も全ての凡夫(ぼんぷ)を憐れんで、東の片隅にあるこの国に、浄土(じょうど)の教えを開きました。

 

そして、数限りない仏方の救いの中から、阿弥陀仏(あみだぶつ)が選び取った「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)によって全ての人を等しく救う」という本願(ほんがん)を、悪に満ちたこの世に広めたのです。

 

(ほう)(ねん)上人(しょうにん)は、迷いと苦しみの世界を離れることができずに、生まれ変わり死に変わりを繰り返すのは、仏方の教えを疑う心があるからだと教えました。

 

速やかに、寂静(じゃくじょう)とも無為(むい)とも呼ばれる涅槃(ねはん)の世界へ入るためには、信心(しんじん)を得る必要があります。

 

高僧(こうそう)方が経典(きょうてん)を広めて下さったのは、極めて悪に濁ったこの世の人々を救済しようと願ったからです。

 

出家(しゅっけ)の人も在家(ざいけ)の人も、共に同じ信心(しんじん)を得て、(ただ)高僧(こうそう)方の説いた教えを信じるべきです。

 

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本内容はあくまでも、現代の人にも通じるように、原文を訳した私訳です。

 

少しでも関心を持って頂けたのであれば、浄土系の各宗派が発行している専門書に目を通すことを、お勧めします。

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