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現代を生きる多くの人は「他力本願」という言葉を聞くと、他人の力をあてにし、自分では努力もしないで、望みが叶うことを願っている怠け者を想像するのではないでしょうか。
他力本願とは、仏教の中でも浄土の教えを信じる人々から生まれた言葉です。
浄土の教えにおいて他力とは、他人の力という意味ではありません。また本願とは、自分の願いという意味でもありません。
本願とは、法蔵菩薩という修行僧が、さとりをひらいて阿弥陀仏という仏に成る時に、「このようにして人々を救う」と誓った四十八個の約束を指す言葉です。
その中で阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏の念仏をする全ての人を、等しく極楽浄土へ救い取り、必ずさとりをひらかせると約束しています。
その約束通りに、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の念仏によって、人々を救おうとするはたらきのことを他力と呼びます。
つまり他力本願とは、阿弥陀仏の約束を素直に信じ、南無阿弥陀仏の念仏のはたらきによって、さとりをひらかせて頂くという、浄土の教えを信じる人の心の姿勢を現した言葉なのです。
仏教では、私達が住んでいる世界のことを此岸と呼びます。
此岸とは、欲や怒りといった煩悩に汚されているために、争いが止まず、互いに傷つけ合っている世界です。
悲しいことに、私達がこの世界で生きていくためには、他の命を奪わなくてはなりません。
たとえばスーパーに並ぶあらゆる食品は、何かしらの命の犠牲の上に成り立っています。肉も魚も野菜も米も、何一つとして命を奪わずに手に入るものはありません。
仮に十分な食料を手に入れたとしても、永遠に生きることはできません。
生まれた以上、老い、病み、死んでいかなければならないのは、この世界の揺るぎないルールです。
煩悩を満たした時に得られる一時の快楽こそあれ、結局のところ、此岸とは迷いと苦しみの世界なのです。
その此岸から、川を渡った向こう側にある世界を彼岸と呼びます。
彼岸とは、全ての煩悩を絶やし尽くしているために、心の平穏が保たれ、安らぎに満ちたさとりの世界です。
お釈迦様は、此岸にいる限り人が苦しみから逃れることはできないのだから、仏の教えによって川を渡り、彼岸に到達しなさいと教えています。
この此岸と彼岸の間にある川とは、欲や怒りといった煩悩を例えた言葉です。
お釈迦様は、煩悩という濁流を泳いで渡る力のある人は、自らの力で修行をし、泳いで渡る力のない人は、他力のはたらきによって、彼岸に到達することを勧めています。
その勧め通りに、南無阿弥陀仏の念仏のはたらきにお任せすることを、他力本願と言うのです。
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