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中国で浄土の教えを確立した善道大師は、観経疏の中で、人がどのような存在であるのかを、次のように説明しています。
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に沈み常に流転して、出離の縁あること無し。
仏教では、身と口と心を慎むことを善とし、身と口と心を乱すことを悪とします。
身とは生活態度という意味であり、自分の損得よりも他人の利益を優先し、思いやりを持って人と接することを善とします。
反対に、人の弱みにつけ込み、力のある人には媚びへつらい、自分の都合ばかりを優先して、身勝手な振る舞いをすることを悪とします。
口とは食事と言葉という意味であり、口から入るものは、命を保つために必要な最低限度の食事とし、口から出るものは、慈しみのある言葉を使うことを善とします。
反対に、美味しい食べ物や酒を好み、あれもこれもと節度のない食事をし、些細な利益に目が眩み、自分の主張を押し通すために、乱暴な言葉を使うことを悪とします。
心とは、身と口に現れる行動の根源であり、欲や自己愛といった煩悩を離れ、あらゆるものに執着せず、言動と内心が一致して、穏やかな状態を保つことを善とします。
反対に、自分だけは得をしたいという、やましい思いを抱えているために、上辺の言動と内心が一致せず、不安定な状態に陥ることを悪とします。
そして、この世で善を重ねた人は、よりさとりの世界へ近づき、この世で悪を重ねた人は、より苦しい世界へ落ちなければなりません。
お釈迦様は、この世界の全ての命は、生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら、互いに繋がり合って存在していると教えました。
たとえば、自動販売機でオレンジジュースを買うためには、自動販売機を管理している人がいて、オレンジジュースを製造販売している人がいて、原材料となるオレンジを育てる人がいなければなりません。
さらに、オレンジが育つための土壌は、数えきれない数の虫や微生物によって支えられているのでしょう。
それらの何か一つが欠けても、自動販売機でオレンジジュースを買うことはできません。
このような関係性は一時のことではなく、過去・現在・未来という時間の中で延々と続いています。
たとえば、私達の足元に転がる石一つも、昔は大きな岩だったかもしれないし、崖だったかもしれません。あるいは、山だったかもしれないし、私達の遠い祖先の亡骸だったかもしれません。
このように、全ての命は生まれ変わり死に変わりを繰り返し、あらゆるものに姿を変えながら、繋がり合って存在しています。
これを、輪廻と言います。
このような視点で見返した時に、善道大師は自身のことを、悪を犯し罪を重ねているために、迷いと苦しみの世界へ沈み、遥か遠い昔から生まれ変わり死に変わりを繰り返してきた愚かな身の上であると告白しているのです。
これを、罪悪生死の凡夫と言います。
さらに善道大師は、罪悪生死の凡夫である自分が、迷いと苦しみの世界を離れて、さとりの世界へ入ることなど、とても叶わないということを「出離の縁あること無し」と表現しているのです。
このような自己認識を持った善道大師だからこそ、自分の力ではなく、南無阿弥陀仏の念仏のはたらきによって、さとりをひらくという浄土の教えを、確立することができたのではないでしょうか。
※過去記事は、こちらにまとめてあります。
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