【動画はこちら】

 

【全文掲載】

浄土(じょうど)の教えにおいて修行とは、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)をすることです。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)は、四十八個ある本願(ほんがん)の中の第十七(だいじゅうしち)(がん)で、次のような約束をしています。

 

第十七(だいじゅうしち)(がん)

私が仏に成る時、数限りない仏方がみな、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)を褒め称えないようなら、私は決してさとりをひらきません。

 

南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)は、普通の修行には耐えられない人や、自ら功徳(くどく)を積むことができない人までを広く救い、苦しみを離れさせ、安楽を与えます。

 

そのため、数限りない仏方はみな、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)を褒め称えるのです。

 

煩悩(ぼんのう)にまみれた凡夫(ぼんぷ)の道は、どのように努めたとしても、結局のところ、さとりに至ることはありません。

 

欲や自己愛といった煩悩(ぼんのう)に縛られて、いつまでも迷いと苦しみの世界を離れることができないから、これを凡夫(ぼんぷ)の道と言うのです。

 

凡夫(ぼんぷ)の道から(てん)じて、念仏(ねんぶつ)の道に入れば、普通の修行には耐えられず、自ら功徳(くどく)を積むことができない身であっても、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)のはたらきによって、さとりをひらくことができます。

 

私達凡夫(ぼんぷ)にとって、自分の力で修行をして、さとりをひらくことは大変に難しい道です。しかし、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)のはたらきによって、さとりをひらくことは大変に易しい道なのです。

 

釈迦(しゃか)様は、父である(じょう)(ぼん)(のう)に、このように念仏(ねんぶつ)の教えを勧めています。

 

さとりとは、全ての煩悩(ぼんのう)を絶やし尽くして得られる境地です。これは到底、凡夫(ぼんぷ)に修められる修行ではありません。そこで、私は父である王に、念仏(ねんぶつ)の修行を勧めているのです。

 

釈迦(しゃか)様の時代でさえ、このように教えられているのですから、仏が現れなくなって五百年以上が経った末法(まっぽう)の時代を生きる私達凡夫(ぼんぷ)が、自分の力で修行をして、さとりをひらくことなど望みようがありません。

 

しかし、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)に出逢えたのであれば、いたずらに生死(しょうじ)の迷いを繰り返す人はなく、誰もが速やかにさとりの世界へ入ることができるのです。

 

私達凡夫(ぼんぷ)はさわりが多く、行動は粗雑で、快楽に弱く、少しの欲で簡単に心が乱れてしまいます。そのような心で、どうしてさとりをひらくための修行を修めることができるのでしょうか。

 

私達凡夫(ぼんぷ)が、このような有り様であるから、お釈迦(しゃか)様はこれを哀れに思い、もっぱらに阿弥陀仏(あみだぶつ)名号(みょうごう)である南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)をして、さとりをひらく道を勧めているのです。

 

もしも、この命が終わる時まで念仏(ねんぶつ)を保ち続けるのであれば、それが善い原因となって、十人いれば十人が、百人いれば百人が、みな等しく極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)することができます。

 

それぞれの誓願(せいがん)が異なる為に、阿弥陀仏(あみだぶつ)は、()自在(じざい)王仏(おうぶつ)という仏の国に現れ、お釈迦(しゃか)様は、煩悩(ぼんのう)に汚れたこの世に現れました。

 

現れた時代や場所は違っても、仏方の目的は同じです。

 

仏方はみな、この世で迷い苦しむ私達を哀れに思い、さとりの世界へ導こうと、様々な手立(てだ)てでもって救いの手を差し伸べてくれているのです。

 

既に、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)成就(じょうじゅ)して極楽(ごくらく)浄土(じょうど)をひらき、お釈迦(しゃか)様はこの世に現れて、念仏(ねんぶつ)の教えを説きました。

 

このように、私達が極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)するための原因は、仏方の手によって全て完成しているのです。

 

あとは私達が念仏(ねんぶつ)さえすれば、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)し、さとりをひらくという結果も自然と定まるでしょう。

 

数限りない仏方の救いの中で、念仏(ねんぶつ)ほど往生(おうじょう)しやすい教えはありません。

 

それなのに、なぜ人々は念仏(ねんぶつ)の教えを修めようとせず、いたずらに迷いと苦しみを繰り返すのでしょうか。

 

人生は夢幻のようであり、あっという間に寿命は尽きて、何も持たず一人きりで死んでいかなければなりません。

 

この命が尽きてしまえば、次はいつ、人に生まれることを得られるのか見当もつきません。

 

凡夫(ぼんぷ)臨終(りんじゅう)は心が乱れ、それまでの悪い行いが原因となって、必ずその報いを受けることになります。

 

その時になって、いくら後悔しても、もはやどうにもなりません。迷いと苦しみの世界に沈み、生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら、果てしなく長い間さ迷うことになるのです。

 

だからこそ、阿弥陀仏(あみだぶつ)やお釈迦(しゃか)様は、私達に念仏(ねんぶつ)することを勧め、どうにかこの一生で往生(おうじょう)できる身になりなさいと教えているのです。

 

念仏(ねんぶつ)する人を極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救い取り、さとりをひらかせるのは、全て阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)のはたらきであって、私達の努力によるものではありません。

 

そのために、これを他力(たりき)と呼びます。

 

もしも念仏(ねんぶつ)の教えを聞いて、阿弥陀仏(あみだぶつ)功徳(くどく)をすっかり理解した気になり、自らが聖者となったように思い上がるのであれば、それは自力(じりき)であって他力(たりき)ではなく、さとりをひらくことの障害にしかなりません。

 

この一生でどのくらい念仏(ねんぶつ)をすればいいのかということについて、無量寿経(むりょうじゅきょう)には「乃至(ないし)(じゅう)(ねん)」と説かれています。

 

乃至(ないし)とは、一ないし十という意味です。十とは沢山という意味です。つまり、生涯に一声でもいいし、好きなだけ唱えてもいいということです。

 

次に、どのような心で念仏(ねんぶつ)をすればいいのかということについて、観経疏(かんぎょうしょ)には「専心(せんしん)」と説かれています。

 

専心(せんしん)とは一心(いっしん)という意味であり、二心(ふたごころ)がないということです。

 

本当に念仏(ねんぶつ)をするだけで救われるのか、阿弥陀仏(あみだぶつ)功徳(くどく)を全て理解するまでは信用できない等と疑う心を捨てて、ただ仏方の勧めている通り、素直に念仏(ねんぶつ)することを専心(せんしん)と言います。

 

修行も満足に修めることができない凡夫(ぼんぷ)が、どうして数限りない仏方が褒め称える阿弥陀仏(あみだぶつ)功徳(くどく)を、思い計り、あれこれと言うことができるのでしょうか。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)は、第十八(だいじゅうはち)(がん)で次のような約束をしています。

 

第十八(だいじゅうはち)(がん)

私が仏に成る時、全ての人が心から信じて、私の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれたいと願い、わずか十回でも南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)をして、もしも生まれることができないようであれば、私は決してさとりをひらきません。

 

さらに阿弥陀仏(あみだぶつ)は、第十一(だいじゅういち)(がん)で次のような約束をしています。

 

第十一(だいじゅういち)(がん)

私が仏に成る時、私の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に住む全ての人が正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、必ずさとりをひらくことができないようであれば、私は決してさとりをひらきません。

 

正定聚(しょうじょうじゅ)とは、必ずさとりをひらく身になれたという意味であり、不退転(ふたいてん)の位とも言われます。

 

念仏(ねんぶつ)する心を得た人は、第十八(だいじゅうはち)(がん)によって極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)が約束され、第十一(だいじゅういち)(がん)によってさとりをひらくことが約束されているから、この命が終わった後には、二度と迷いと苦しみの世界に戻る(退転(たいてん)する)ことはありません。

 

これを不退転(ふたいてん)と言うのです。

 

釈迦(しゃか)様は、私達の目が煩悩(ぼんのう)に覆われているために、それを見ることができないだけで、全ての命には仏性(ぶっしょう)が備わっていると説いています。

 

仏性(ぶっしょう)とは、さとりをひらいて仏に成る為の種という意味です。

 

その仏性(ぶっしょう)成就(じょうじゅ)させ、この世でさとりをひらく場合には自力(じりき)を用い、あの世(極楽(ごくらく)浄土(じょうど))でさとりをひらく場合には他力(たりき)を用います。

 

普通の修行には耐えられず、自ら功徳(くどく)を積むこともできない私達凡夫(ぼんぷ)が、さとりをひらくためには、他力(たりき)に任せるべきであり、決して自力(じりき)にこだわってはいけません。

 

念仏(ねんぶつ)は、さとりをひらくための近道です。これより易しい道は、他にありません。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

本内容はあくまでも、現代の人にも通じるように、原文を訳した私訳です。

 

少しでも関心を持って頂けたのであれば、浄土系の各宗派が発行している専門書に目を通すことを、お勧めします。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。