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仏教が、長い年月をかけて広がりを見せる中で、多くの宗派が生まれ、それぞれの解釈や教え方に違いが生まれました。しかし、それが仏教である限り、その最終的な目的は、さとりをひらいて仏に成ることです。

 

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)も、その目的を果たすために、貴族という身分を捨て、出家をし、修行僧になります。

 

それから二十年間。親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、比叡山(ひえいざん)で修行に励みます。しかし、どれだけ修行をしても、さとりをひらくという願いは叶いません。

 

修行に行き詰まった親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、二十九歳の時、比叡山(ひえいざん)を下りる決意をします。

 

そして、「ただ、念仏(ねんぶつ)しなさい」と教える(ほう)(ねん)上人(しょうにん)と出会い、その弟子になるのです。

 

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)・序の中で、葦提(いだい)()を例に挙げて、念仏(ねんぶつ)の教えとは「悪を転じて功徳(くどく)に変える優れた教えである」と説明しています。

 

この葦提(いだい)()極楽(ごくらく)浄土(じょうど)への往生(おうじょう)を願った経緯については、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)という経典(きょうてん)に説かれています。

 

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葦提(いだい)()は、インドのマガダ国の王妃でした。

 

ある時、葦提(いだい)()の息子である阿闍(あじゃ)()は、お釈迦(しゃか)様の従弟である提婆(だいば)(だっ)()にそそのかされて、父である頻婆娑(びんばしゃ)()(おう)を殺害し、無理矢理に王位を継承してしまいます。

 

さらに阿闍(あじゃ)()は、頻婆娑(ひんばしゃ)()(おう)を牢獄に閉じ込めていた頃に、葦提(いだい)()が密かに食べ物を届けていたことを知って激怒します。そうして葦提(いだい)()までも、牢獄に閉じ込めてしまうのです。

 

絶望した葦提(いだい)()は、悪に汚れた「この世」という場所には、もう居たくないという願いを起こします。

 

これにより、阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を説く因縁(いんねん)が整ったことを知ったお釈迦(しゃか)様は、弟子達と共に葦提(いだい)()の元を訪ね、数限りない仏方の国が、どのような姿をしているのか、葦提(いだい)()に説いて聞かせます。

 

これを聞いた葦提(いだい)()は、「仏方の国は、どれも清らかですが、私はその中でも、阿弥陀仏(あみだぶつ)の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれたいと思います」と答えます。

 

さらに葦提(いだい)()は、「私は今、お釈迦(しゃか)様の知恵によって、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救われる道があることを知りました。しかし、お釈迦(しゃか)様がこの世を去った後、生き残る人々は、どのようにして極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救われる道があることを知ればよいのでしょうか」と問いかけます。

 

すると、お釈迦(しゃか)様は「極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救われる人は、上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)上生(じょうしょう)中生(ちゅうしょう)下生(げしょう)を組み合わせた、上品(じょうぼん)上生(じょうしょう)から下品(げぼん)下生(げしょう)までの九種類に分けることができる」と答えます。

 

そして、それぞれの人が、どのようにして極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救われるのかを、上から順番に説いて聞かせます。

 

まず、上品(じょうぼん)上生(じょうしょう)とは、さとりを求める心を起こし、優しい心を保って、むやみに生き物を殺さず、戒律(かいりつ)を守って、修行に励む人を指します。

 

この勤め励む人が、いよいよ命を終える時には、阿弥陀仏(あみだぶつ)が多くの菩薩(ぼさつ)方を連れて、迎えに来てくれます。

 

そして命を終えると同時に、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ生まれ変わり、仏方から直接教えを聞いて、さとりをひらくことができるのです。

 

このようにして、お釈迦(しゃか)様の教えは、最も下の位である下品(げぼん)下生(げしょう)まで続きます。

 

下品(げぼん)下生(げしょう)とは、欲に目が眩んで、様々な悪を犯した報いとして、より苦しい世界へ落ちていかなればならない人を指します。

 

この愚かな人が、いよいよ命を終える時に、たまたま知恵ある人に出会い、心に仏を念ずることを教えられます。

 

しかし、この愚かな人は、臨終(りんじゅう)の苦しみに苛まれて、心に仏を念ずることができません。

 

そこで知恵ある人は、心に仏を念ずることができないのであれば、ただ「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と口に出して(とな)えなさいと教えます。

 

そうして、この愚かな人が、念仏(ねんぶつ)を十回(とな)えると、その一声一声が善い原因となって、それまでの罪が消えていきます。

 

そして命を終えると同時に、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に咲く蓮の花の中に生まれ変わります。

 

蓮の花の中で、果てしなく長い時を過ごし、やがて仏の教えを聞く因縁(いんねん)が整うと、蓮の花は、そっと開きます。

 

この愚かな人が目を開けると、そこには菩薩(ぼさつ)方がいて、優しい声で教えを説いて聞かせます。

 

この愚かな人は、これを聞いて喜び、さとりを求める心を起こし、仏方の仲間入りを果たすのです。

 

最後に、お釈迦(しゃか)様は、この教えは「これまでに犯したどのような悪も、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へ救われることの()(さわ)りにならない教え」であり、この教えによって救われたいと願う人は「いつも南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)を、心にとどめなさい」と説いて、この(きょう)を終えます。

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念仏(ねんぶつ)の教えは、下品(げぼん)下生(げしょう)でさえも見捨てずに、広く多くの人を救うことから、大きな乗り物という意味で、大乗(だいじょう)仏教(ぶっきょう)と呼ばれます。

 

このことを、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)・序の中で、「渡り難い煩悩(ぼんのう)の海を渡し、さとりの世界へ運んでくれる大きな船である」と表現しています。

 

さらに親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、念仏(ねんぶつ)の教えは「煩悩(ぼんのう)に目を塞がれて、先のことも後のことも見えなくなっている私達の行き先を、明るく照らしてくれる知恵の輝きである」と続けています。

 

念仏(ねんぶつ)の教えとは、私達を乗せてくれる大きな船であり、その船の行き先は、誰もがさとりをひらくことのできる極楽(ごくらく)浄土(じょうど)であるから、その航路は明るいと、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は教えているのです。

 

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