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お釈迦様は三十五歳の時、迷いと苦しみの鎖である煩悩を断ち切って、さとりをひらきました。
それから、四十五年間。お釈迦様は、インド各地を巡って教えを説き続けます。
その中で、お釈迦様が「どれほど時間が流れても、決して変わることがない」と教えた、この世界の原理原則があります。
この原理原則を、道理と言います。その代表的なものが「因果の道理」です。
「因」とは「原因」という意味であり、「果」とは「結果」という意味です。
そして、原因と結びついて、現実に結果を引き起こすはたらきのことを「縁」と言います。
たとえば、ここにリンゴの種があったとします。
リンゴの種は、将来、沢山の果実を実らせるための原因です。しかし、リンゴの種をアスファルトの上に置いておくだけでは、果実が実るという結果は起きません。
土があり、雨があり、太陽があって、初めてリンゴの種は、芽を出し、成長して、果実を実らせることができるのです。
この土や雨や太陽のように、果実が実るための条件となるものが、縁です。
このような関係性を「因縁」と言います。そして、因縁が整った時に、それに見合った結果が起こります。
親鸞聖人が、教行信証・序の中で「たまたま、阿弥陀仏の本願に出会い、信心を得ることができたのなら、遥か遠い昔から、この一生に続く道のどこかに、その種となる因縁があったことを深く感謝しなさい」と言っている、その因縁もまた、お釈迦様の説いた因果の道理を前提としているのです。
さらに、お釈迦様は、因果の道理によって起こる結果には、次の三つの決まりがあると教えています。
その決まりを、善因善果・悪因悪果・自因自果と言います。
善因善果・悪因悪果とは、善い原因からは、必ず善い結果が生まれ、悪い原因からは、必ず悪い結果が生まれるという決まりです。
自因自果とは、それが善い結果であれ悪い結果であれ、自分で起こした原因による結果は、自分が受けなければならないのであって、誰もこれを代わってはくれないという決まりです。
この世界には、因果の道理という原理原則がはたらいていて、その中で私達それぞれが、我が身に受ける結果というものは、善因善果・悪因悪果・自因自果という決まりによって起こります。だからこそ、お釈迦様は「悪を犯してはいけない、善を急ぎなさい」と教えているのです。
このような考え方を、廃悪修繕(悪を廃して、善を修める)と言います。
これだけを聞くと、視野が狭く、自惚れやすい私達は、因果の道理をすっかり理解したような気になって、自分には知恵があり、自分は善いことをしていると、勝手に満足してしまいます。
しかし、お釈迦様は「因果の道理は、ただ仏だけが知っている」と教えています。
それは、どういう意味なのでしょうか。
たとえば、あなたが、犬や猫、あるいは虫や魚ではなく、人間に生まれるという結果を受けたのは、何が原因だったのでしょうか。
たとえば、あなたが、今の親の元に、今の容姿や能力を持って生まれるという結果を受けたのは、何が原因だったのでしょうか。
たとえば、あなたが、この瞬間にも、何百・何千という人が死んでいく世界の中にあって、生き残るという結果を受けているのは、何が原因なのでしょうか。なぜ、今まさに死んでいく人と、そうでない人がいるのでしょうか。その違いは、どのような因縁によって起こるのでしょうか。
それらの結果にも、必ず原因があります。因果の道理に、例外はありません。
しかし、全ての因果を見通すためには、さとりという広い視野が必要です。そして、その広い視野を得た人を、仏と呼びます。
お釈迦様が「悪を犯してはいけない、善を急ぎなさい」と教えている、その善悪もまた、私達が思う善悪ではなく、仏方が思う善悪を指しているのです。
私達は、いつも煩悩にまみれていて、迷いと苦しみの世界から離れることができません。だからこそ、「人として生きていられる」という因縁が尽きてしまう前に、仏の声に耳を傾けて、その教えを聞くことが大切ではないでしょうか。
※過去記事は、こちらにまとめてあります。
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