【動画はこちら】
【全文掲載】
今から約二千五百年前、インドの釈迦という部族に、一人の王子が誕生しました。その王子の名前を、ゴータマ・シッダッタと言います。
後にゴータマは、王子という身分を捨て、出家をし、修行僧になります。そのきっかけとなった出来事を、四門出遊と言います。
四門出遊には、ゴータマが二十九歳の時、東西南北の四つの門から、郊外へ出かけた時の出来事が語られています。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
一つ目の門から出かけた時、ゴータマは、枯れ枝のようにやせ細った老人を目にします。
また別の日。二つ目の門から出かけた時には、病気で苦しむ人を、三つ目の門から出かけた時には、既に息絶えた人を目にします。
それまで宮殿の中にいて、美しいものばかりを目にしてきたゴータマは、この光景に衝撃を受けます。
そして、人間の根本的な苦しみは、老いであり、病気であり、死であり、それらを避けて通ることのできない「生きることそのもの」であるという現実に直面し、思い悩むようになります。
その後、四つ目の門から出かけた時、ゴータマは、何一つとして所有物を持たない修行僧を目にします。
その時。ゴータマは、人間の根本的な苦しみである、生・老・病・死の解決を求めて、出家を決意するのです。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
そうして修行僧となったゴータマは、苦しみというものが、自分の中にある欲や自己愛といった煩悩から生じることを知ります。
そしてゴータマは、厳しい修行を重ね、苦しみの鎖である煩悩を断ち切って、さとりをひらきます。それは、ゴータマが修行を始めてから六年後、三十五歳の時でした。
さとりをひらいたゴータマは、人々から、ゴータマ・ブッダと呼ばれるようになります。
ブッダとは、「目覚めた人」という意味です。目覚めたとは、「道理」に目覚めたという意味です。道理とは、この世界を形作っている「原理原則」のことです。
原理原則を知ることで視野が広がり、この世界が本当はどんな場所であるのか、そこで生きている私達が、本当はどんな姿をしているのか、それらをありのままに見れるようになります。
このような知恵を得ることを、さとりをひらくと言います。そして、さとりをひらくことを仏に成ると言い、仏に成ることを成仏すると言います。
現代の日本では、人が亡くなることを成仏すると表現しますが、本来、成仏とは、さとりをひらいたかどうかの問題であり、人の生死には関係がありません。
仏教が、長い年月をかけて広がりを見せる中で、多くの宗派が生まれ、それぞれの解釈や教え方に違いが生まれました。しかし、それが仏教である限り、その最終的な目的は、さとりをひらいて仏に成ることです。
迷いと苦しみの鎖である煩悩を断ち切って、さとりという心の平穏を手に入れることこそ、本当の幸せであると教えているのが、仏教なのです。
※過去記事は、こちらにまとめてあります。
↓