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私なりに聞かせて頂いた限りでは、浄土(じょうど)の教えには、二つのはたらきがあります。

 

一つ目のはたらきを、往相(おうそう)と言います。

 

これは、私達が阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)に出会い、信心(しんじん)を得て、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)(おう)(じょう)して、さとりをひらかせて頂くというはたらきであり、浄土(じょうど)の教えの根幹となるものです。

 

二つ目のはたらきを、還相(げんそう)と言います。

 

これは、往相(おうそう)によってさとりをひらいた私達が、今度は、自らが仏と成って、人々を救おうとするはたらきです。

 

そして、ここに書き記す、真実の教えと、念仏(ねんぶつ)をするという修行と、他力(たりき)信心(しんじん)と、信心(しんじん)を得た者に必ずさとりをひらかせるという阿弥陀仏(あみだぶつ)の約束の(あかし)とは、一つ目の往相(おうそう)を指しているのです。

 

このことは、無量寿経(むりょうじゅきょう)という経典(きょうてん)に説かれています。

 

この経典(きょうてん)には、阿弥陀仏(あみだぶつ)が、煩悩(ぼんのう)にまみれて迷いの世界から離れることができない私達を哀れに思い、全ての人を等しく救いたいという壮大な願いを起こしたこと。さらに、その願いを実現させるため手立(てだ)てとして、阿弥陀仏(あみだぶつ)が、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)という念仏(ねんぶつ)を選び取ったことが記されています。

 

釈迦(しゃか)様が、この世に現れて教えを説いた目的も、阿弥陀仏(あみだぶつ)と変わることなく、この世で迷い苦しむ私達を、さとりの世界へ導きたいと願ったからです。

 

その中で、お釈迦(しゃか)様が阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を説いたのは、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)が、遠い未来を生きる私達でも、さとりをひらくことのできる優れた教えだったからです。

 

このことは、お釈迦(しゃか)様が阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)を説く前に、弟子の阿難(あなん)と交わした言葉から、うかがい知ることができます。

 

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阿難(あなん)が、このように申し上げました。

 

()(そん)(お釈迦(しゃか)様)は、今、喜びに満ちあふれ、いつにも増して清らかな表情をされています。私は未だかつて、このような尊い姿を目にしたことがありません。

 

過去・現在・未来の仏方は、さとりという知恵によって、互いに通じ合っていると聞いたことがあります。()(そん)も今、このような境地にいるのではないでしょうか。

 

そうでなければ、これほど清らかな姿をされている理由が見当たりません。

 

この問いに対して、お釈迦(しゃか)様は、このように仰いました。

 

阿難(あなん)よ、全ての仏方は、迷いの世界で苦しむ人々を哀れに思い、仮の姿として人という形をとって、この世に現れます。

 

そして、心の平穏という本当の幸せを施すために、仏の教えを説いて、人々をさとりの世界へ導こうとするのです。

 

それは、三千年に一度しか咲かないという優曇華(うどんげ)の花を目にすることと同じくらい、稀なことです。

 

私もまた、過去・現在・未来の仏方と同じように、全ての人々を救うために、何ものにも妨げられない優れた教えを説く機会を、今、得ました。

 

これが、喜びでないはずがありません。

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このような記述は、如来会(にょらいえ)平等(びょうどう)(がく)(きょう)(きょう)(ごう)(じゅつ)(もん)(さん)にも見ることができます。

 

このことからも、無量寿経(むりょうじゅきょう)に説かれている阿弥陀仏(あみだぶつ)本願(ほんがん)は、どのような時代を生きる人々であっても、等しくさとりの世界へ救われることのできる真実の教えであり、この教えを説くことこそ、過去・現在・未来の仏方が、この世に現れる目的だと知ることができます。

 

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本内容はあくまでも、現代の人にも通じるように、原文を訳した私訳です。

 

少しでも関心を持って頂けたのであれば、浄土系の各宗派が発行している専門書に目を通すことを、お勧めします。

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※過去記事は、こちらにまとめてあります。