浄土宗の開祖である法然上人は、数多くの経典の中から『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』こそ、遠い未来を生きる私達のために、お釈迦様が残して下さった真実の教えであると説きました。

 

これを、浄土三部経と呼びます。

 

その中から今回は、『仏説無量寿経』より、五悪についての一節を紹介します。

 

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【全文掲載】

お釈迦様は、このように仰いました。

 

もしも、そなたたちが「この世」という場所において、心を正しくして、いろいろな悪を犯さなければ、それは極めて優れた徳であり、他に類をみないことであろう。なぜなら、他の仏方の国に住む人々は、自ずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんど無いからである。そのような人々を、さとりの世界に導き入れることは、実にたやすい。

 

今、私が仏と成って、次に述べるような五悪に満ちた「この世」という場所にいることは、大変な苦労なのである。しかし、その中で人々に教えを説いて、五悪をやめさせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせて、人々を、さとりの世界に導きたいと思う。

 

それでは、その五悪とは何であるか。また、五悪をやめさせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせるとは、どういうことなのか、これから説いて聞かせよう。

 

第一の悪とは、次のようなものである。

 

人間をはじめ、小さな虫のたぐいに至るまで、全ての生き物は、互いに傷つけ合い、殺し合っている。

 

善い行いをすることを知らず、強い者は弱い者をしいたげ、状況さえ揃ってしまえば、どのような恐ろしい悪であっても、犯さないものはない。そうして罪を重ねた者は、その罰として、自ずから苦しい世界へ行かなければならない。

 

それでこの世には、貧しい者や身分の低い者、身よりのない者など、様々な不幸な人がいるのである。また身分の高い者や裕福な者、才能に恵まれた者などがいるのは、みな前世で人を慈しみ、善い行いをしたことが、善い結果に繋がっているのである。

 

この世には、法令で定められた牢獄があるのに、それを少しも恐れないで、悪い行いをし、罪を犯して、その刑罰を受ける人がいる。それをどれほど逃れたいと思っても、逃れることはできない。

 

この世にも、現にこのような苦痛がある。

 

さらに命を終えた後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生れ変ることは、この世界でもっとも厳しい刑罰を受けることと同じほどの苦痛である。

 

このようにして悪を犯した者は、地獄や餓鬼や畜生などの苦しい世界を、生まれ変わり死に変わりしながら、さ迷い続ける。

 

前世で憎みあった者同士は、再び同じところに生まれ、かわるがわる報復しあって、尽きることがない。互いに犯した罪が消えない限り、決して離れることができないのである。このように、地獄や餓鬼や畜生などの苦しい世界を転々と巡り、浮かび出ることがない。

 

その痛ましさは、とても言い表すことができない。

 

全ての結果には、それが起こるための原因というものが、必ず存在する。このような原因と結果の法則を、因果の道理と言う。悪い原因を作ったのであれば、たとえ、すぐにその結果が現れなくても、いつか必ず、悪い結果を受けなくてはならない。

 

これを、第一の悪という。

 

その苦しさは、ちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。もしも、このような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、様々な善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れ、功徳を積み、迷いの世界を離れ、極楽浄土に生れて、さとりをひらくことができるであろう。

 

これを、第一の善と言う。

 

第ニの悪とは、次のようなものである。

 

この世の人々は、仏の教えを聞こうともせず、道理に反したことばかりを繰り返している。

 

贅沢を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、それぞれが自分の快楽を追い求め、それを手に入れるために、騙し合い、惑わし合っている。上辺の言葉と内心とが一致せず、そのどちらも誠実でなく、媚びへつらい、言葉巧みにお世辞を言っては、賢い人をねたみ、善人を騙して、他人をけなし、落とし入れるばかりである。

 

もしも、上に立つ者が愚かであり、よく考えずに下の者を用いると、下の者は、思いつく限りの嘘偽りを言って、上の者を欺こうとする。どれだけ賢い者がいたとしても、その上に立つ者が、その地位にふさわしい力量を備えていないのであれば、そのために欺かれて、忠義を尽す者は、かえって不遇な目に合うばかりである。これは道理に反している。

 

このようにして、下の者は上の者を欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺き合っているのである。誰も彼もが、自分だけは得をしたいという思いにかられ、貪りと怒りと愚かさとに目を奪われて、後のことも先のことも見えなくなっている。このことは、身分や地位に関わらず、みな同じである。

 

ある時は、親族や知人、町や村の者、または素姓の知れない者達までも巻き込んで、共に悪事にたずさわり、互いが互いの損得を優先するあまりに、争いを起こしては腹を立て、憎しみ合っている。また、ある時は、自分は裕福な身でありながら、物惜しみをして、他人には施しもせず、自分一人が裕福でありたいと願い、財産に執着するあまり、身も心も擦り減らしてしまう。そうして、いよいよ命が終わる時になって、何も頼りにできるものがないことに気づくという有り様である。

 

結局、人は、一人この世に生れ来て、一人この世を去るのであって、何も持っていくことはできない。

 

善も悪も、善い結果も悪い結果も、全ては因果の道理に従うのであるから、悪い行いを重ねた者は、地獄や餓鬼や畜生などの苦しい世界に生れることを免れない。そうなってから、いくら後悔しても、もはやどうにもならない。

 

この世の人々は、愚かで知恵も浅く、善い行いを見れば、それを悪く言い、その行いを見習おうとせず、快楽を伴う悪事を好んでは、道理に反したことばかりを繰り返している。

 

他人が得をしているのを見ては、いつもうらやみ、時には、盗んででも手に入れようとする。仮に、それが手に入ったとしても、すぐに使い果たし、また手に入れたいと言う欲に、胸を焦がすのである。

 

心がよこしまで、正しくないから、いつも他人の顔色を伺い、恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きて、ようやく後悔するという有り様である。この世には、法令で定められた牢獄があるから、悪い行いをした者は、その罪の重さに応じた刑罰を受けなければならない。教えも信じず、功徳も積まずに、この世で悪を犯すのであれば、その命が尽きた後には、自ずから悪い世界に落ちなければならない。そうして、地獄や餓鬼や畜生などの世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を生まれ変わり死に変わりしながら、果てしなく長い間さ迷い、浮び出ることがない。その痛ましさは、とても言い表すことができない。

 

これを、第二の悪と言う。

 

その苦しさは、ちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。もしも、このような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、様々な善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れ、功徳を積み、迷いの世界を離れ、極楽浄土に生れて、さとりをひらくことができるであろう。

 

これを、第ニの善と言う。

 

第三の悪とは、次のようなものである。

 

この世の人々は、みな寄り集って、同じ世界で生きているが、その年月は、それほど長くない。しかし、その短い生涯の中にも、上は賢い者や力のある者、身分の高い者や裕福な者がいて、下は貧しい者や身分の低い者、力のない者や愚かな者がいる。そして、そのどちらの中にも、善くない者がいる。

 

その者は、いつもよこしまな思いを抱き、みだらなことばかりを考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れ、何をしていても安まることがない。そして、あくまで執念深く、自分の欲を満たそうと必死になる。美しい人を見ては、自分のものにしたいと願い、思いつく限りの、みだらな振舞いをする。果ては、自分の妻や夫を疎ましく思い、他の人のところに出入りをするようになる。そのために、家財を使い果たし、法を犯す者までいる始末である。

 

ある者は、徒党を組んで互いに傷つけ合い、相手を脅かし殺してまで、欲しい物を強奪するという非道な行為に及ぶ。また、ある者は、他人の財産をうらやんで、自分の仕事を怠り、他人の物を盗み、そうして少しでも得をしようものなら、欲にかられて、より一層大きな悪事をはたらくようになる。このような悪い行いには際限がなく、一度、味をしめてしまうと、その内に、家族や親類までを巻き込んで、大きな苦しみを与えることになる。

 

このような人々も、法令で定められた牢獄に閉じ込められ、刑罰を受けることになる。さらに、その命が尽きた後には、その悪い行いの結果として、悪い世界に落ちなければならない。そうして、地獄や餓鬼や畜生などの世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を生まれ変わり死に変わりしながら、果てしなく長い間さ迷い、浮び出ることがない。その痛ましさは、とても言い表すことができない。

 

これを、第三の悪と言う。

 

その苦しさは、ちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。もしも、このような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、様々な善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れ、功徳を積み、迷いの世界を離れ、極楽浄土に生れて、さとりをひらくことができるであろう。

 

これを、第三の善と言う。

 

第四の悪とは、次のようなものである。

 

この世の人々は、善い行いをしようともせず、互いに次々と人をそそのかして、様々な悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口を言い、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ、争いを起すのである。あるいは、善人をねたみ、賢い者をおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる。親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじて、友人に信用なく、何事にも誠実さを欠いている。しかも、自分自身は尊大に構えて、自分一人が正しいと思い込み、むやみに威張って人をあなどり、自分の誤りには気づかずに、悪を犯して恥じることがない。さらに、自分の力を見せつけて、周囲の人がうやまい恐れることを、自ら望むという有り様である。

 

このような人々は、因果の道理を恐れず、教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。しかも、自分自身は横着を決め込んで、いつまでも、このままでいられると思い、必ず死ななければならない身の上であることも知らず、死んだ後のことを考えることもなく、いつも傲慢な心を抱いているのである。

 

仮に、その人が前世で少しばかりの功徳を積んだことにより、しばらくの間、都合良く生きられたとしても、この世で悪を犯して、その功徳が尽きてしまえば、残るものは悪い結果だけである。命が終わる時には、一人取り残され、何一つ頼るものがなくなってしまう。そうなってから、いくら後悔しても、もはやどうにもならない。これまでに犯してきた様々な悪が、その人を行くべきところへ引きずり落としてしまう。

 

罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができない。やがては、地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて、痛み苦しむことになる。

 

因果の道理に、例外はない。

 

このようにして、悪を犯した者は、地獄や餓鬼や畜生などの世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を生まれ変わり死に変わりしながら、果てしなく長い間さ迷い、浮び出ることがない。その痛ましさは、とても言い表すことができない。

 

これを、第四の悪と言う。

 

その苦しさは、ちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。もしも、このような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、様々な善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れ、功徳を積み、迷いの世界を離れ、極楽浄土に生れて、さとりをひらくことができるであろう。

 

これを、第四の善と言う。

 

第五の悪とは、次のようなものである。

 

この世の人々は、怠け心を起こして、身をつつしむことも、自分の仕事に励むこともなく、一家は飢えと寒さに困り果てている。親が諭しても、かえって目を怒らせ、言葉も荒く口答えをする。その様子は、まるで仇を相手にするようであり、こんな子なら、いない方がマシだと思われるくらいである。

 

また、物のやり取りにしまりがなく、多くの人に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がない。そのため、ますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。そこで、どうにか自分だけは得をしたいと考え、正当な権利のない金品を手に入れては、好き放題に使ってしまう。その内に、それが習慣となり、快楽に満ちた贅沢な暮らしを望むようになる。豪華な食事や高価な酒、派手な遊びに夢中になるのである。欲望のままに身勝手な振る舞いをし、自分の愚かさを省みることなく、人と衝突をする。相手の気持ちを考えることもしないで、自分の都合ばかりを押しつけて、人が善いことをするのを見ては、ねたみ恨むと言った有り様である。そこには、義理もなければ、礼儀もない。ただ、わが身可愛さに、人に迷惑をかけ続けるのである。それでいて、自分だけは正しいと自惚れているのだから、手の施しようがない。

 

自分の行動が、人をどれほど不快にさせているのかなど想像もしないで、心には、いつも悪い思いを抱き、愚痴や悪口ばかりを口にし、行動は粗雑で厚かましく、今まで何一つとして善い行いをしたことがないのである。

 

そのような者は、仏の教えを信じない。修行により、迷いの世界を離れて、さとりが得られることを信じない。人が死ねば、次の世に生れ変わることを信じない。善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。さらに心の中では、仏を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家の者でさえ、傷つけようとするのである。そのため、身内の者からも忌み嫌われて、そんな者は早く死ねばいいと思われるほどである。

 

このような有り様は、大小の差こそあれ、みな同じである。

 

この世の人々は、道理が分らず、愚かでありながら、自分には知恵があり、自分だけは正しいと思い込んでいる。人がどこから来て、どこへ行くかということも知らず、仏の教えに耳を傾けることもしないで、道理に反した生き方をしながら、得られるはずもない幸福を望み、いつまでも、この世で楽しく生きていたいと願っている。

 

しかし、人は、やがて必ず死ぬのである。

 

それを哀れに思って、教え諭し、善い心を起させようとして、生と死と、善と悪と、因果の道理とを説くのであるが、これを信じようとしない。どれほど懇切丁寧に語りかけても、そのような人には、何の役にも立たない。心の扉を固く閉ざして、この世の快楽に心を奪われるばかりである。そして、いよいよ命が終ろうとする時に、心に悔いと恐れとが、かわるがわる起きるのである。それまで何一つ善い行いをせず、その時になってどれほど後悔しても、もはや取り返しはつかない。

 

この世界には、因果の道理がある。これは、明白な事実である。

 

善い行いをすれば、自分自身に幸せをもたらし、悪い行いをすれば、自分自身に災いをもたらす。その結果は、全て自分自身が受けるのであって、誰もこれを代わってはくれない。

 

まことに、因果の道理は必然である。

 

善人は善い行いをして、より好ましい世界へ生れ変り、ますますさとりの世界へ近づくのであり、悪人は悪い行いをして、より苦しい世界へ生れ変り、ますます深く迷いの世界へ沈むのである。

 

この道理は誰もが知るものではなく、ただ仏だけが知っている。そのため私は、この道理を、人々に教え聞かせているのであるが、信じる者は少ない。それで、誰も彼もが、いつまでも生れ変り死に変りを繰り返して、迷いの世界を離れることができないのである。このような人々の痛ましい有り様は、その全てを説き尽くすことなど、とてもできない。

 

これを、第五の悪と言う。

 

その苦しさは、ちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。もしも、このような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、様々な善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れ、功徳を積み、迷いの世界を離れ、極楽浄土に生れて、さとりをひらくことができるであろう。

 

これを、第五の善と言う。

 

続けて、お釈迦様は、このように仰いました。

 

今、私が、そなたたちに語ったように、この世の人々は、この五悪のために苦しんでいる。この五悪から、次々に悪い結果が生まれ、報いを受けているのである。悪ばかりを犯して、功徳を積まないのであれば、みな、自ずから様々な苦しみの世界に生まれなければならない。

 

ある者は、この世で難病を患い、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを、人々の前にさらすのである。そして、命が終われば、その行いに応じて、地獄や餓鬼や畜生などの世界に沈み、はかり知れない苦しみに、その身を焼かれる。長い時を経て、再び人間に生まれることができても、また互いに憎み合って、小さな悪から始まり、やがて大きな悪を犯すようになる。

 

これらのことは、全て、自分一人が得をしたいと欲を貪って、人に施すことを物惜しむ心から生じるのである。

 

この世の人々は、愚かな欲望に追い回されて、わがままな考えを抱き、いつまでも煩悩に縛られたままで、自分の利益ばかりを考え、他人と争い、悪い行いをしても反省せず、進んで善い行いをしようともしない。たまたま裕福な暮らしができたとしても、快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、進んで善い行いをしないのなら、その勢いも長続きはせず、またすぐに落ちぶれてしまう。その身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほど、その激しさは増すばかりである。

 

因果の道理は、網の目のように世界を覆い、一つの罪も見逃すことなく数え上げる。その張りめぐらされた網に、全ての者は捕えられ、逃れることができない。一人取り残され、恐れおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは、今も昔も変ることがない。まことに痛ましい限りである。

 

この世の人々が、こういう有り様であるから、仏方は、みなこれを哀れみ、その優れた功徳によって、悪を砕き、全ての者に善い行いをさせようと、様々な手立てでもって、救いの道を示して下さるのである。

 

誤った思いを捨てて、教えを聞き、日頃の行いを正して、いつも自分の心と行為とに気をつけているのであれば、必ず迷いの世界を離れて、さとりをひらくことができるであろう。

 

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本内容はあくまでも、現代の人にも通じるように、原文を訳した私訳です。


少しでも関心を持って頂けたのであれば、浄土系の各宗派が発行している原文に目を通すことを、お勧めします。

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【ご挨拶】

はやいもので、ブログをお休みさせて頂いてから、1年が過ぎようとしています。

 

コロナの脅威は解消されず、社会は不安に包まれたままです。このような時代に、私達は何を頼りにして生きていけばいいのか。それを思い返した時に、やはり仏の教えという心の支えが必要ではないかと感じています。

 

この度、ブログを再開すると共に、動画の配信を開始しようと考えています。

 

仏の教えとは、その時代を生きる人々に届いてこそ、意味があるのだと私は思います。文字離れが進む現代でも、動画という形にすれば、人の耳に触れることがあるのではないかと考えました。

 

私にできることは多くはありませんが、できることを、できる範囲で、続けてみようと思います。今後も不定期の更新になると思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。

 

※過去記事はこちらにまとめてあります。

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