【原文】

念仏(ねんぶつ)行者(ぎょうじゃ)のために非行(ひぎょう)非善(ひぜん)なり。()(はか)らいにて(ぎょう)ずるに(あら)ざれば()(ぎょう)という、()(はか)らいにてつくる(ぜん)にも(あら)ざれば()(ぜん)という。ひとえに他力(たりき)にして自力(じりき)(はな)れたる(ゆえ)に、(ぎょう)(じゃ)のためには非行(ひぎょう)非善(ひぜん)なりと云々(うんぬん)

 

【意訳】

親鸞聖人は、このように仰っていました。

念仏とは、私達がする修行でもなければ、私達が積む善でもありません。

南無阿弥陀仏の念仏とは、阿弥陀仏が長い修行の果てに、大変多くの善を積み完成させた救いの手立てです。

それは阿弥陀仏から見た場合に、修行となり、善となるのであって、私達が「自分の力で良いことをした」と思うこととは、まったく別のものです。

ですから私達から見た場合に、念仏とは、修行でもなければ、善でもないのです。


【補記】

息を吸うことから、お墓の心配まで、私達は常に何かしらの目的を持って行動しています。


それが、意識されていることであれ、無意識の内にしていることであれ、私達の行動の根底には「こうしたい」「こうなりたい」「これが欲しい」「これは嫌だ」という衝動が、必ず存在します。


そのような私達ですから、念仏をするときも、当然に何かしらの目的を持っています。


故人の冥福を祈りたい、心を落ち着かせたい、自分を守ってくれるご利益が欲しい。


それぞれに理由は違っても、私達はみな、何かしらの目的を叶えるために念仏をしているのではないでしょうか。


このように、目的を達成させるために自分の力で念仏という修行をして、善を積もうとする行動のことを、自力の念仏と言います。


しかし親鸞聖人は、私達が念仏をするのも、念仏によって極楽浄土へ往生するのも、極楽浄土へ往生することによってさとりをひらくことができるのも、全ては阿弥陀仏のはたらき(他力)によると教えています。


これを、他力の念仏と言います。


本来、南無阿弥陀仏の念仏とは、阿弥陀仏が完成させた功徳そのものであり、私達はただ、そのような救いの手立てがあることに感謝するばかりであるから、私達から見た場合に、念仏とは、修行でもなければ、善でもないのです。