お釈迦様の弟子に、周利しゅりはんどくという人がいました。

 

周利槃特には、とても賢い兄がいました。

 

お釈迦様の弟子となっていた兄に誘われ、周利槃特もまた、出家の道を志します。

 

しかし賢い兄と比べて、周利槃特は物覚えが悪く、とても愚かな人でした。

 

お釈迦様の弟子となって数年。


毎日のように、お釈迦様の話を聞いているにも関わらず、その教えの一節ですら、まともに覚えることができないのです。

 

その様子を見兼ねた兄は、出家の道を諦めて俗世へ戻るよう、周利槃特に迫ります。

 

悲しみに沈んだ周利槃特が一人泣いていると、そこを通りかかったお釈迦様が声をかけます。

 

泣いている訳を尋ねられた周利槃特は、こう答えます。

 

「私は愚かで、物覚えが悪く、お釈迦様の教えを理解することができません。兄からは、もう帰れと言われてしまいました」

 

その様子を見ていたお釈迦様は、周利槃特に、こう説いて聞かせます。

 

「自分のことを愚かだと知っている人は、愚か者ではありません。自分は賢いと思い込んでいる人が、本当の愚か者です」

 

そしてお釈迦様は、白い布(ホウキとも言われています)を周利槃特に与えると、このような教えを説いて聞かせます。

 

「塵を払い、垢を除く、そう唱え続けながら掃除をしなさい」

 

そのような教えなら、自分にも実行できる。

 

周利槃特は笑顔を取り戻し、それから毎日「塵を払い、垢を除く」と唱え続けながら掃除をしました。

 

そんな周利槃特の様子を見ていた弟子の中には、「あんなことが修行になるのか」「掃除など、俗世の者でもしている」と陰口を言う人もいました。

 

それでも周利槃特は、来る日も来る日も掃除を続けました。

 

「塵を払い、垢を除く」

 

そう唱え続けながら掃除をすること数十年。周利槃特は、ある時、大切なことに気がつきました。

 

本当に取り除かなくてはいけないものは、床に落ちた塵でも、壁についた垢でもなく、自分の心の中にある煩悩という塵や垢だった。

 

それから周利槃特は、お釈迦様の弟子の中でも、大変に優れた弟子の一人となりました。

 

さとりという広い視野を持ったお釈迦様の目には、周利槃特が大切なことに気づくためには、何が必要なのか。その答えが、はっきりと見えていたのでしょう。

 

このように、相手の能力や置かれている立場、その時の心情に合わせて、相手が理解できるように、直接話しかけて教えを説くことを、対機たいき説法せっぽうと言います。

 

仏教の世界で「機」という字は、「人」という意味で使われます。そして「法」という字は、仏が説いた「教え」という意味で使われます。

 

対面しながら、その人の状況に合わせて、その人に最も適した言葉で、教えを説いて聞かせる。

 

それが、対機説法です。