私達の心は、常に変化しています。

 

ある時は、素晴らしいと涙を流して感動した出来事も、毎日のように目にすれば、あっという間に慣れてしまって、そのうちに見向きもしなくなります。

 

楽しい時に見る夕陽は、この世界が美しいことを教えてくれているように思えても、悲しい時に見る夕陽は、この世界の虚しさを象徴しているように思えるのです。

 

よく晴れた朝に、今日は良い日だと上機嫌になってみても、うっかりこぼしたコーヒーが、お気に入りの白シャツの裾を汚した途端、良かったはずの今日は最悪の日に変わってしまいます。

 

このように私達の心は、内から外から沸き起こる些細な刺激によって、簡単に変化してしまうものなのです。

 

そのように頼りなく変化してしまう心というフィルターを通して、私達は、この世界のあらゆるものを見聞きしています。

 

鬱陶しかった親の苦言も、大人になってみれば有難く感じる。あの時の先生の一言は、こんな意味だったのか。あの人の言葉が、今になって身に染みる。

 

そんな経験をしたことがないでしょうか。

 

記憶の中の言葉は変わらなくても、私達の心が変化するから、ある時、同じ言葉が、まったく違う意味に聞こえるのです。

 

このように私達は、自分の置かれている立場やその時の気分によって、好きなように見方も聞き方も変えてしまいます。

 

この世界で、あらゆるものを客観的に見聞きできる人など、一人もいないのです。

 

しかし厄介なことに、自惚れやすい私達は、自分こそは正しく世界を見ている、自分こそは正しく世界を聞いていると信じて疑いません。

 

そのような思い違いを、簡単に信じ切ってしまえることもまた、私達の心の頼りなさ故のことなのでしょう。

 

いつも、いつまでも、私達は心というフィルターを通して、主観的にしか物事を見聞きすることができません。そのような私達が、正しく仏教を聞くためには、何が必要なのでしょうか。

 

その答えを知るヒントが、お釈迦様の教えの中に残されています。

 

お釈迦様の弟子に、周利(しゅり)(はん)(どく)という人がいました。

 

周利槃特には、とても賢い兄がいました。

 

お釈迦様の弟子となっていた兄に誘われ、周利槃特もまた、出家の道を志します。

 

しかし賢い兄と比べて、周利槃特は物覚えが悪く、とても愚かな人でした。

 

お釈迦様の弟子となって数年。


毎日のように、お釈迦様の話を聞いているにも関わらず、その教えの一節ですら、まともに覚えることができないのです。

 

その様子を見兼ねた兄は、出家の道を諦めて俗世へ戻るよう、周利槃特に迫ります。

 

悲しみに沈んだ周利槃特が一人泣いていると、そこを通りかかったお釈迦様が声をかけます。

 

泣いている訳を尋ねられた周利槃特は、こう答えます。

 

「私は愚かで、物覚えが悪く、お釈迦様の教えを理解することができません。兄からは、もう帰れと言われてしまいました」

 

その様子を見ていたお釈迦様は、周利槃特に、こう説いて聞かせます。

 

「自分のことを愚かだと知っている人は、愚か者ではありません。自分は賢いと思い込んでいる人が、本当の愚か者です」

 

そしてお釈迦様は、白い布(ホウキとも言われています)を周利槃特に与えると、このような教えを説いて聞かせます。

 

「塵を払い、垢を除く、そう唱え続けながら掃除をしなさい」

 

そのような教えなら、自分にも実行できる。

 

周利槃特は笑顔を取り戻し、それから毎日「塵を払い、垢を除く」と唱え続けながら掃除をしました。

 

そんな周利槃特の様子を見ていた弟子の中には、「あんなことが修行になるのか」「掃除など、俗世の者でもしている」と陰口を言う人もいました。

 

それでも周利槃特は、来る日も来る日も掃除を続けました。

 

「塵を払い、垢を除く」

 

そう唱え続けながら掃除をすること数十年。周利槃特は、ある時、大切なことに気がつきました。

 

本当に取り除かなくてはいけないものは、床に落ちた塵でも、壁についた垢でもなく、自分の心の中にある煩悩という塵や垢だった。

 

それから周利槃特は、お釈迦様の弟子の中でも、大変に優れた弟子の一人となりました。

 

さとりという広い視野を持ったお釈迦様の目には、周利槃特が大切なことに気づくためには、何が必要なのか。その答えが、はっきりと見えていたのでしょう。

 

このように、相手の能力や置かれている立場、その時の心情に合わせて、相手が理解できるように、直接話しかけて教えを説くことを、対機(たいき)説法(せっぽう)と言います。

 

仏教の世界で「機」という字は、「人」という意味で使われます。そして「法」という字は、仏が説いた「教え」という意味で使われます。

 

対面しながら、その人の状況に合わせて、その人に最も適した言葉で、教えを説いて聞かせる。

 

それが、対機説法です。

 

お釈迦様の教えのほとんどは、この対機説法によって説かれたものです。お釈迦様は、その生涯で、わずか一冊の経典も書き残してはいません。

 

今日まで、仏教の根幹を支え続けた七千冊を超える経典は、お釈迦様が人としての命を終えた後、その教えを後世に残そうとした弟子達の手によって書き残されたものです。

 

そのため、ほとんどの経典は「(弟子である)私は、(お釈迦様から)このように聞きました」という決まり文句で始まります。

 

自分が置かれている立場やその時の気分によって、好きなように見方も聞き方も変えてしまう私達が、どうすれば正しく教えを聞くことができるのか。

 

その答えが、はっきりと見えていたからこそ、お釈迦様は、対機説法という教え方を選んだのでしょう。

 

しかし、相手の能力や置かれている立場、その時の心情に合わせて、相手が理解できるように、直接話しかけてくれるお釈迦様は、もう、この世にはいません。

 

お釈迦様から直接教えを聞くことができない私達は、七千冊を超える経典を読み、その内容を全て理解しない限り、救われることはないのでしょうか。

 

いいえ、そうではありません。

 

お釈迦様の教えは、弟子達の手によって七千冊を超える経典となりました。そして、七千冊を超える経典は、数多くの僧侶の手によって、その時代に合った解説書になりました。

 

その中の一冊が、正信偈です。

 

このようにお釈迦様の教えは、変幻自在に姿を変えながら、二千六百年という時を超えて、現代の私達のところまで届いているのです。

 

お釈迦様から直接教えを聞くことができない私達も、お釈迦様の教えを解説してくれた先人達の声を聞くことはできます。

 

そこに、私達が本当の意味で幸せに生きていくための知恵が、確かに書き残されているのです。