あなたは、どんな人ですか?

 

そう聞かれたら、あなたは、どんな風に自分のことを紹介するでしょうか。

 

明るい人、真面目が取り柄、猫が好き、スポーツが得意、音楽の知識なら誰にも負けない、食べ歩きが趣味……等々。それぞれが、それぞれの経験に基づいて、自分とはこんな人であると言葉にすることでしょう。

 

そこで紹介される自分とは、果たして、本当の自分の姿なのでしょうか?


親鸞聖人は、人が本当はどんな姿をしているのか、このような言葉で表現しています。

 

【原文】

煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)凡夫(ぼんぶ)

 

【意訳】

煩悩まみれの人間。それこそが、真実の自己の姿である。

 

煩悩とは、私達を(なや)(わずら)わせる心のことです。

 

たとえば、ずっと憧れていたマイホームを、やっと買うことができたとしましょう。それは人生で最も高い買い物であり、大きな喜びを与えてくれるものでしょう。

 

しかし、その喜びも束の間、今度はおしゃれな家具が欲しい、映画を見るための大画面で高画質なテレビが欲しい、庭には美しい花を咲かせたいと、マイホーム以外にも欲しいものが、次から次へと溢れ出てくるのです。

 

私達の欲しがる心は、決して止むことを知りません。何を手に入れたところで、それに満足していられるのは、ほんの少しの間だけです。


砂漠に降る雨のように、すぐに乾いて、欲しい、欲しいと私達を苦しめる心。それが、煩悩の代表格である欲です。

 

その欲が妨げられた時に、顔を出す煩悩が怒りです。

 

どうして欲しいものが手に入らないのか。こんなに努力しているのに認められないなんて、何てひどい社会だろう。自分が成功するためには、アイツの存在が邪魔だ。

 

そうして怒りのままに暴れまわった挙句、やはり欲しいものが手に入らないと分かった時に、顔を出す煩悩が愚痴や嫉妬です。

 

努力したって、何にもならないじゃないか。自分なんて、居ても居なくても同じだ。どうしてアイツばかりチヤホヤされるのか。悔しい、憎たらしい。アイツのような恵まれた環境にいれば、自分だってもっと良い人生を送れたはずなのに。ズルい、不公平だ。

 

私達の毎日は、煩悩と共に始まり、煩悩に振り回されて終わります。煩悩から離れることなど、一秒たりともできないのです。

 

親鸞聖人は、それこそが真実の自己の姿だと教えているのです。


そして、何よりも親鸞聖人自身が、常に煩悩まみれであって、どうにも救われる縁のない愚かで憐れな身の上なのだと告白しています。

 

【原文】

(まこと)()んぬ。(かな)しきかな愚禿(ぐとく)(らん)愛欲(あいよく)広海(こうかい)沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)大山(たいせん)(めい)(わく)して……(中略)、()ずべし、(いた)むべし。

(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)

 

【意訳】

本当に身をもって知った。悲しいことですが、愚かな親鸞は、どこまでも深い欲の海に沈み、果てしなく高い名誉や利得の山に迷い込んで……(中略)、恥ずかしいことです、痛ましいことです。

 

どんなに地位のある人でも、どんなに尊敬を集める人でも、どんなに平凡で目立たない人でも、どんなに非難を浴びている人でも、何も変わりません。全ての人は、みな等しく煩悩まみれであって、煩悩から離れて生きられる人など、一人もいないのです。

 

そのような煩悩まみれの私達が、誰かを救ったり、誰かから救われたりするものでしょうか。そんな力を、煩悩まみれの私達は、それぞれに持っているのでしょうか。

 

たとえば優秀な医師は、重大な病気から患者を救うことができるかもしれません。たとえば訓練を積んだレスキュー隊は、大きな災害から人命を救うことができるかもしれません。たとえば熟練のカウンセラーは、思い悩み自殺を考えている相談者に、再び生きる勇気を与えることができるかもしれません。

 

私達は、そのように自分を救ってくれた相手のことを「命の恩人」と呼び、心からの尊敬と感謝を送ります。それは、大変尊いことでしょう。

 

しかし、それらの救いは、足元に迫った死という底なしの真っ暗闇を、一時的に遠ざける延命措置であって、死という問題そのものを解決してくれた訳ではありません。その時は生き長らえたとしても、私達は、いつか必ず死ななければなりません。

 

医師が、レスキュー隊が、カウンセラーができるのは、あくまでも延命という救いまでです。それは煩悩まみれの私達にできる、最大限の救いなのでしょう。

 

親鸞聖人が問題にしているのは、どれだけ長生きをさせるかという延命の救いではありません。

 

三世因果の道理の中で、生まれ変わり死に変わりを繰り返し、迷いに迷って、苦しみに苦しんできた私達の根本にある、死という問題そのものを解決すること。それこそが、本当の意味で救われるということであり、人生の目的を達成するということです。

 

そのような救いは、とても煩悩まみれの私達にできる仕事ではありません。悲しいことですが、煩悩まみれの私達は、根本的な意味において、誰かを救うこともできなければ、誰かから救われることもないのです。

 

お釈迦様は、そのことを、このように教えています。

 

【原文】

独生(どくしょう)独死(どくし)独去(どっこ)独来(どくらい)

 

【意訳】

人は誰でも、一人で生まれ、一人で死んでいきます。この世という場所に一人で来て、あの世という場所へ一人で去るのです。それは全ての命が持っている、避け難い決まりなのです。

 

たとえば重い病気を患い、やせ細った我が子の姿に、母親がどれほど胸を痛めたとしても、我が子の代わりに重い病気を引き受けてあげることは、どうしてもできません。たとえば不幸な事故に巻き込まれ、夢半ばで無念の死を遂げた恋人のことを、どれほど憐れんだとしても、恋人の身代わりとなって死を引き受けてあげることは、どうしてもできません。

 

残念なことに、生まれる時と死ぬ時は、みな等しく一人ぼっちなのです。それは、この世界が誕生した時から未来永劫続いていく、どうにも避け難い決まりです。

 

どれだけ頼りがいのある人を探しても、人の力で死という問題そのものを解決することはできません。

 

人の力ではどうすることもできない死という問題そのものを、根本から解決してくれる唯一無二の仏。


それが、阿弥陀仏です。


その阿弥陀仏が、煩悩まみれの私達を救うための手立てとして完成させたものが、大悲の願船です。


だからこそ親鸞聖人は、いつまでも自分の力で何でも解決できると自惚れていないで、真実の自己の姿を知り、人の力の非力を認め、阿弥陀仏という仏の力を頼みとして、大悲の願船に乗ることを急ぎなさいと勧めているのです。