親鸞聖人は、この世界のことを、こう表現しました。
【原文】
火宅無常の世界
【意訳】
燃えている家の中にいるような不安な世界
親鸞聖人が生まれた平安末期は、平氏と源氏が争い合う戦乱の時代でした。度重なる戦争に加え、大規模な飢饉に見舞われた京都の町は、死者で溢れ、世界は混沌としていました。
そのような時代に生を受け、幼い頃に両親を亡くした親鸞聖人は、人の命の儚さを肌身に感じていたのでしょう。わずか九歳で出家をした際に、このような和歌を残しています。
【原文】
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
【意訳】
今が盛りと咲き誇っている桜の花も、一晩の嵐で散ってしまうかもしれない(そのように人の命とは儚いものだから、私は出家を急ぎたいのです)。
親鸞聖人が生きていた時代は、まさに燃えている家の中にいるような不安な世界そのものだったのでしょう。
しかし、現代の私達が暮らしているのは、戦争や飢饉とは無縁の経済大国です。
日本の治安は先進国の中でもトップクラスの高さを誇り、食べ物に困ることはなく、無償で義務教育が受けられ、誰でも健康保険に加入できます。平均寿命は伸び続け、今や人生百年時代です。
それなら私達は、燃えている家の中にいるような不安な世界から抜け出して、快適で安全な世界を生きていると言えるのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
現代を生きている私達もまた、燃えている家の中にいるような不安な世界を生きているのです。
たとえば、あなたの周りで、こんな会話を耳にしたことがないでしょうか。
「佐藤さん。お誕生日、おめでとう」
「ありがとう。私も、ついに三十歳になっちゃったよ。まさか、自分が三十代になるなんて、学生の頃は夢にも思わなかったな」
「三十歳からは、時間が経つのが早いよ。あっという間にアラフォーになっちゃうからね」
たとえば、あなたの周りで、こんなことが起きていないでしょうか。
「田中さん、うつ病で休職したって、本当?」
「本当だよ。さっき課長から聞いた」
「あんなに明るい人が、どうして……」
「本当にね。元気だけが取り柄みたいな人だったのに。人って、分からないものだよね」
たとえば、あなたの周りで、こんなニュースが流れていないでしょうか。
「今朝、軽自動車が通学途中の小学生の列に突っ込みました。児童二名が意識不明のまま病院へ運ばれましたが、その後、死亡が確認されました。軽自動車を運転していた九十歳の男性は、赤信号で停止しようとした際に、アクセルとブレーキを踏み間違えたと証言しているとのことです」
私達が、今こうして生きているということは、老い、病み、死んでいかなければならないということです。
治安が良くても悪くても、飽食でも飢饉でも、教育や医療を十分に受けられても受けられなくても、平均寿命がどれだけ伸びようとも、まったく関係がありません。
社会がどんなに便利になろうと、私達が望もうと望むまいと、そんなことはお構いなしに、問答無用で、老い、病み、死んでいかなければならない。それが、この世界の本当の姿です。
永遠に変わらないものなど、何一つありません。全ての命は桜の花と同様に、生まれ咲いたその日から、いつか散っていく定めを背負っています。
そのように「常なるものが無い世界」のことを、親鸞聖人は、燃えている家の中にいるような不安な世界と言っているのです。
こんな話をされると「気分が暗くなるから聞きたくない」と、目を背けてしまう人もいるのではないでしょうか。
経済が、科学が、医学が、急速に発達し、死を実感する機会が極端に少ない社会を生きている私達は、自分や自分の愛する人が死ぬという現実を直視することができません。自分や自分の愛する人が死ぬことなど、想像するのも縁起が悪いと、ひたすらに見ないフリを決め込んでいます。
しかし、どれだけ目を背け続けたところで、現実は何も変わりません。私達は、問答無用で、老い、病み、死んでいかなければならない命を生きているのです。
私達の100%確実な未来である死の実態を、蓮如上人は、こう教えています。
【原文】
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。
(御文)
【意訳】
いよいよ死んでいく時には、今まで頼りにしていた家族も財産も、全てのものから切り離されてしまう。そして、果てしなく続く真っ暗闇の中を、何も持たず、たった一人で、死んでいかなければならないのです。
この世界の本当の姿を見ようとしないということは、目隠しをして平均台の上を歩くようなものです。
歩いているのが、ただの平均台であれば、足を踏み外したとしても、少し痛い思いをすれば済むかもしれません。
しかし、私達が歩いているのは、命の平均台です。平均台の下に広がっているのは、死という底なしの真っ暗闇です。一度足を踏み外したら最後、二度と元には戻れません。
そんな恐ろしい場所を歩く時に、わざわざ目隠しをする人がいるでしょうか。
どんなに恐ろしくても、目を開いて、足元を見つめ、慎重に歩みを進めていくはずです。そうでなければ、無事に平均台を渡り切れるはずがありません。
恐いものは見なくて済むよう目隠しをし、それでも平均台は無事に渡り切りたいなど、無茶な話です。そのような無茶をしているから、いつか足を踏み外し、死という底なしの真っ暗闇の中へ落ちる羽目になるのです。
その時、私達を待っているのは絶望です。
それまで頼りにしていた全てのものから切り離され、誰にも何にも頼ることはできず、死という底なしの真っ暗闇の中へ、真っ逆さまに落ちていくのです。これほどの絶望が、他にあるでしょうか。そして、そんな終わり方をする人生が、本当に幸せなものだと言えるのでしょうか。
私達が本当の意味で幸せに生きていくためには、この世界の本当の姿を見つめ、そのような世界を生きている自分自身と真剣に向き合う必要があります。
どんなに恐ろしくても、目の前の現実をしっかりと見つめること。それは一度きりの人生を、安心して、満足して、幸せに渡り切るために、どうしても必要なことなのです。