全ての命は、過去・現在・未来の三つの連なりの中で、繋がり合って存在している。そして、その繋がりの中で起こる全てのことには、必ず原因と結果がある。お釈迦様は、そう教えました。

 

それが、三世因果の道理です

 

因果は、人の一生の中で完結するものではなく、永遠に続く命の繋がりの中で蓄積していくものです。

 

私達が、今こうして人として生きているということは、そうなるための善因を、永遠の過去から積み重ねてきた結果なのです。それがどれほど難しいことか。お釈迦様は、このように教えています。

 

ある時。お釈迦様は、弟子の阿難(あなん)に尋ねました。

 

「そなたは人に生まれたことを、どう思っているか」

 

阿難が答えます。

 

「大変、喜んでいます」

 

そこで、お釈迦様は、こう問いかけます。

 

「百年に一度だけ、海面に顔を出す亀がいる。この亀は、目が見えない。また、真ん中に穴のあいた流木が浮かんでいる。この流木は、風に揺られ、波に流され、不規則に大海原を漂っている。百年に一度、亀が海面に顔を出した瞬間に、その頭がすっぽりと流木の穴に入ることがあると思うか」

 

阿難は驚いて、こう答えます。

 

「そんなことは、とても考えられません」

 

すると、お釈迦様は、こう念押しをします。

 

「絶対にないと言い切れるか」

 

「何億年、何兆年という時間をかければ、もしかすると、そのようなことが起こるかもしれません。しかし、そんなことはあり得ないと言っていいほど難しいことです」

 

そこで、お釈迦様は、こう教えを説きます。

 

「そなたには分からないことだろうが、(三世因果の道理の中で)私達が人に生まれるということは、亀の頭が流木の穴に入ることよりも難しいことなのです」

 

これを、(もう)()浮木(ふぼく)のたとえ話と言います。

 

三世因果の道理は、この世界の真理です。その真理をさとった人のことを、仏と呼びます。

 

今日の日本では、亡くなった人を「仏さん」と呼んだりしますが、仏教の考え方からすると、それは大変な間違いです。死者は、あくまでも死者です。仏になれるのは、真理をさとった人だけです。

 

人類の歴史の中で、数千億、数千兆という人が、生まれては死んでいきました。その中で、人として生きている間に真理をさとった人は、お釈迦様、ただ一人です。

 

三世因果の道理という真理を、何一つ欠けることなく承知できるのは、仏のみです。とても人の及ぶところではありません。

 

お釈迦様の十大弟子に数えられる阿難であっても、真理をさとることは難しかったのです。

 

そこでお釈迦様は、さとりを得ていない弟子にも分かるように、盲亀浮木というたとえ話にして、人に生まれることの難しさを教えたのです。

 

三世因果の道理の中で、生まれ変わり死に変わりを繰り返し、迷いに迷って、苦しみに苦しんで、途方もない善因を積み重ねた結果、ようやく人に生まれることを得た。それが、私達です。

 

この積み重ねてきた善因のことを、宿しゅくぜんと呼びます。

 

浄土真宗を日本最大の宗派にまで押し上げた中興の祖、蓮如上人は、御文(おふみ(教えを書いた手紙)に、こう記しています。

 

【原文】

無宿(むしゅく)(ぜん)()(いた)りては(ちから)(およ)ばす

 

【意訳】

宿善の無い人は、救われようがない

 

人に生まれることも、仏教を聞く機会が得られるのも、全ては宿善があってこそです。

 

私達は、人に生まれ、教育を受け、スマホ一つで様々な情報が手に入ることを、当たり前だと思っています。そして、その情報の中に仏教が混ざっていたとしても、大した驚きも感動もなく素通りをしてしまうのです。

 

生きていて当然、教育を受けられて当然、情報が手に入って当然。それが、現代を生きている私達の価値観ではないでしょうか。

 

人に生まれ、仏教を聞く機会を得た。そのような宿善が私にもあった。何と有難いことだろう。そう心から感謝して生きている人が、一体、どれくらいいるでしょうか。

 

私達は、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに必死になっています。

 

自分の記憶にない永遠の過去に積み重ねてきた宿善にも、自分が認識できない永遠の未来に繋がっていく宿善にも、まるで興味がありません。

 

人として生きている間に起こることが全てだと思って、目先の些細な成果を競い合い、勝ったとか負けたとか、得したとか損したとか、大騒ぎをしているのです。

 

人に生まれることを得てもなお、仏教を聞く善因を持たない無宿善の人だけは、どれだけ教えを説いたところで、どうにも救われようがない。その無念を、蓮如上人は「力及ばず」と手紙に書き記しているのです。

 

それでは、私達は一体何をすれば、その宿善を積むことができるのでしょうか。

 

三世因果の道理と同様に、何が宿善を積むことになるのか、何一つ欠けることなく承知できるのは、仏のみです。とても人の及ぶところではありません。

 

もしも、三世因果の道理を知り尽くし、宿善の積み方を何一つ欠けることなく承知できるのなら、未来に起こる全ての結果が私達にとって善いものとなるように、全ての原因をコントロールすることもできるかもしれません。

 

しかし、そんなことのできる私達ではないのです。それは、仏のみが承知できる途方もない知恵です。とても人の手の届くようなものではありません。

 

けれど、人に生まれることを得た私達は、今の一生で仏教を聞くことはできます。

 

仏教は聞法(もんぽう)に極まる、と言います。

 

法とは、仏(お釈迦様)の説いた教えのことです。三世因果の道理宿善も、知り尽くした仏の説いた教えだから、仏教と言うのです。その仏教を聞くこと以外に、私達にできることがあるでしょうか。

 

人に生まれ、仏教を聞く機会を得た。それは、奇跡と呼べる必然です。永遠の過去から積み重ねてきた宿善によって、ようやく得た成果です。

 

そうであるならば、人生の目的を知り、それを達成して、満足のいく幸せな一生を過ごせる身になれるまで、真剣に聞法を続ける生き方をすべきではないでしょうか。