お釈迦様は、人に生まれることの難しさを、このような言葉で教えました。

 

【原文】

人身(じんしん)()(がた)し、(いま)すでに()

 

【意訳】

人に生まれることは難しい。しかし、私は今、人に生まれることを得た。

 

なぜ人に生まれることが、難しいことなのでしょうか。

 

そもそも私達はなぜ、隣の田中さんや、お向かいの佐藤さんではなく、今の親の元に、今の容姿や能力を持って、長男や次女というそれぞれの立場で生まれたのでしょうか。それらは、単なる偶然だったのでしょうか。

 

それが分かるためには、仏教の根幹となる道理を知る必要があります。道理というのは、お釈迦様が「どんな時代に、何があったとしても、これだけは決して変わることがない」と教えた真理のことです。仏教の根幹となる道理。それを、こう呼びます。

 

三世(さんぜ)因果(いんが)道理(どうり

 

三世因果の道理が分からなければ、どんな教えに出会っても、仏教を正しく聞くことは難しいでしょう。それほどに、三世因果の道理とは大切な教えなのです。

 

少し難しい話になりますが、諦めずに読んで頂ければ幸いです。

 

三世とは、過去・現在・未来という三つの連なりのことです。お釈迦様は、過去・現在・未来という三つの連なりの中で、全てのものは繋がり合って存在していると教えました。

 

これだけを聞けば、当たり前だと思うかもしれません。

 

しかし、お釈迦様が教えた過去とは、私達が生まれてから、今こうして生きているまでの過去ではありません。また、お釈迦様が教えた未来とは、今こうして生きている私達が、いつか死を迎えるまでの未来ではありません。

 

私達が人に生まれたということは、親がいて、祖父母がいて、そのまた親がいて、祖父母がいて、そのずっと前には、人ではない何かしらの生命体があって、さらにその前には、人ではない何かしらの生命体の元になる物質があったということです。そのような永遠の過去を、全て含んで繋がっている今が、私達です。

 

同じように、人としての命を終えた私達も、何かしらの形で未来へ繋がっていきます。それは自分の子供を残すとか残さないとか、ごく限られた範囲の話ではありません。

 

私達は、いつか風に飛ばされた木葉かもしれないし、いつか大海原に落ちた一滴の雨粒だったかもしれない。また私達は、いつか遠い国の片隅で咲く花かもしれないし、いつか遠い国で新しく人として生を受ける命かもしれないのです。

 

そのように、過去・現在・未来という三つの連なりの中で、全てのものは繋がり合って存在しているという真理を、お釈迦様は三世と教えました。

 

では、もう一つの因果とは何でしょうか。

 

因果とは、この世界で起こる全てのことには、必ず原因(因)と結果(果)があるという真理です。

 

これだけを聞けば、やはり当たり前だと思うかもしれません。

 

しかし、お釈迦様が教えた原因とは、私達が生まれてから、今こうして生きている間に作った原因ではありません。また、お釈迦様が教えた結果とは、今こうして生きている私達が、いつか死を迎えるまでに起こる結果ではありません。

 

お釈迦様は、因果の道理は、必ず三世の道理とセットではたらくと教えました。それはつまり、このようなことです。

 

全ての命は、過去・現在・未来の三つの連なりの中で、繋がり合って存在しています。そして、その繋がりの中で起こる全てのことには、必ず原因と結果があります。

 

因果とは、人の一生の中で完結するものではありません。

 

どこかの命で発生した原因は、永遠に続く命の繋がりのどこかで、必ず結果となって現れます。

 

私達が、隣の田中さんや、お向かいの佐藤さんではなく、今の親の元に、今の容姿や能力を持って、長男や次女というそれぞれの立場で生まれたということは、そうなるための原因が、永遠に続く命の繋がりのどこかにあったということです。その原因に一定の条件がはたらいたことで、私達は、それぞれの『私』に生まれたのです。

 

この原因にはたらいて結果を発生させる条件のことを、縁と言います。

 

たとえば、ここに柿の種があったとします。

 

柿の種は、将来、沢山の果実を実らせるための原因です。しかし、柿の種をアスファルトの上に置いておくだけでは、果実が実るという結果は起きません。

 

土があり、雨があり、太陽があって、初めて柿の種は、芽を出し、成長することができるのです。土や雨や太陽など、果実が実るための条件となるものが縁です。

 

全ての命は永遠の繋がりの中にあり、その繋がりの中で起こした原因に縁がはたらくことで結果が現れる。

 

それが、三世因果の道理です。

 

お釈迦様は、この世界の全てのことは、三世因果の道理で成り立っていると教えました。そして、三世因果の道理には、さらに三つの決まりがあると教えました。

 

善因(ぜんいん)善果(ぜんか

悪因(あくいん)悪果(あっか

自因(じいん)自果(じか)

 

善い原因に善い縁がはたらけば、必ず善い結果をもたらします。反対に、悪い原因に悪い縁がはたらけば、必ず悪い結果をもたらします。そして、自分で起こした原因による結果は、それが善いことであれ悪いことであれ、永遠に続く命の繋がりのどこかで、必ず自分が受け取らなければならないのです。

 

これを、善因善果、悪因悪果、自因自果と言います。

 

たかが百年しか続かない人の一生の中で、全ての因果が完結するのではなく、過去・現在・未来の三つの連なりの中で、善因善果、悪因悪果、自因自果はめぐり続け、はたらき続けています。

 

たとえば、この世で大変な悪事(悪因)を犯した人がいたとしましょう。その人が、たまたま今の一生で、その報い(悪果)を受けることがなかったとしても、一度作った悪因は、永遠に続く命の繋がりのどこかで、必ず自分が受け取らなければならない悪果として現れます。

 

反対に、この世で沢山の親切(善因)をした人がいたとしましょう。その人が、たまたま今の一生で、その成果(善果)を受けることがなかったとしても、一度作った善因は、永遠に続く命の繋がりのどこかで、必ず自分が受け取る善果として現れます。

 

三世因果の道理に、例外はありません。

 

悪因を作っても悪果を受けなくて済むという『逃げ得』もなければ、善因を作っても善果を受け取れないという『やり損』もないのです。

 

だからこそ、悪をしてはいけない、善を急ぎなさいと、お釈迦様は教えたのです。

 

これを、(はい)(あく)(しゅ)(ぜん)と言います。

 

私達が人に生まれたということは、永遠の過去から、途方もない善因を積み重ねてきた結果です。だからこそ、人に生まれることは難しく、人に生まれることを得たのであれば、その善因に感謝しなさいと、お釈迦様は教えているのです。