経済が、科学が、医学が、急速に発達した現代の日本には、生きる楽しみが溢れています。コンビニやスーパーには美味しい食べ物が並び、町には数えきれない娯楽施設があって、スマホ一つでショッピングもゲームも音楽も思いのままです。
しかし、これほど恵まれた現代の日本で、年間二万人以上の人が自殺をしています。うつ病の患者数は百万人を超え、引きこもりの高年齢化が社会問題になっています。
これらの現実は、一体、何を物語っているのでしょうか?
非正規労働者が急増し、格差社会と言われて久しい現代の日本で、これらの現実は、単に経済的な貧しさの問題だと片付けていいのでしょうか。
確かに、経済的に貧しい暮らしというのは苦しいものです。誰でも億万長者になって、何不自由のない暮らしをしたいと思うでしょう。しかし、物質的な豊かさだけで、人は幸せになれるのでしょうか。
元事務次官の七十代の男性が、引きこもりの四十代の息子を包丁で刺し、殺害するという事件が世間を騒がせました。経済的な貧しさとは無縁の暮らしの中にも、このような惨劇の火種は、いくらでもくすぶっているものなのです。
これほど物質的に恵まれた国に蔓延している、生きづらさ。その根底には、何があるのでしょうか?
私達は、生きていることを良いことだと思い、死ぬことを悪いことだと思っています。そして、生きている間をどうやって楽しむのか、それこそが生きがいであり、生きる意味だと信じています。
どう生きるのか。
家庭でも、学校でも、会社でも、セミナーでも、教えられることは、これ一つです。
どうすれば成功して沢山のお金を稼げるのか。どうすれば有益なスキルを身に付けられるのか。どうすれば生涯のパートナーを見つけられるのか。
生きていることは素晴らしい。生きているからこそ人生が楽しめる。より良く生きろ。より楽しく生きろ。どこもかしこも、生きろ、生きろ、の大合唱です。
絶え間なく響き渡る、生きろ、生きろ、の大合唱に、私達は息切れを起こしているのではないでしょうか。
生きていることは素晴らしいと信じて疑わない価値観を、私は生きること至上主義と呼んでいます。
そして皮肉なことに、生きること至上主義こそが、私達の命を危うい場所へと立たせているのです。
生きること至上主義という価値観は、根本的に矛盾しています。
それは実にシンプルで、誰にでも分かる矛盾です。それにも関わらず、私達は、その矛盾に気づかない。もしくは、気づこうとしないのです。その矛盾とは、このようなものです。
私達は、必ず死ななければならない。
当たり前だと笑う人もいるでしょう。しかし、この当たり前の現実を、我が事だと認識できている人が、一体、どれくらいいるのでしょうか。
甚大な被害をもたらした東日本大震災。
その前夜に「ああ、私は明日、津波に飲まれて死ななければならない」と、死を覚悟した人がいたでしょうか。そんな人は一人もいないのです。私達は、毎日のように人が死んでいくニュースを見ながら、自分だけは関係のない安全な場所にいるのだと勘違いをしています。
ある日突然、問答無用で死ななければならない身の上である私達が、生きている間をどうやって楽しむのかだけに夢中になっている。そんな無茶な生き方をしていれば、どこかで必ず価値観の破綻が起きます。
目の前に死という現実を突きつけられた時、私達を待っているのは絶望です。死という現実の前では、生きること至上主義などという価値観は、風に舞うチリと同じです。何の役にも立ちません。
生きること至上主義という価値観は、健康で順調な人生を歩んでいる時には、とても輝かしく見えるものです。しかし、大きな困難に直面し、人生の歩みを止めた時、その輝きは呆気なく失われます。それどころか、唯一の頼みとしていた価値観に裏切られたという現実は、大きな苦しみとなって、私達に襲い掛かってくるのです。
生きること至上主義という価値観で、私達が救われることはありません。目先の楽しみだけを追い求めて生きていても、その先には、必ず死という現実が待っています。最後に絶望が待っている価値観が、私達を救うはずがないのです。
私達が本当の意味で幸せに生きていくためには、必ず死ななければならない身の上であるという現実と真剣に向き合う必要があります。
それが、仏教を聞く最初の一歩なのです。