私達は、どんな時に仏教を聞きたいと思うのでしょうか。それは人生に悩み苦しんでいる時です。今が楽しくて仕方ない、人生は順風満帆だ、毎日が生きる喜びで満ち溢れている。そんな時に仏教を聞きたいと思う人は、まずいないでしょう。

 

大きな困難に直面し、人生の歩みを止めた時、私達は自分の足元にある底知れない不安に気づきます。その不安とは、このようなものです。

 

私は、何のために生きているのだろうか?

 

人生は、人それぞれです。

どのような容姿で、どのような環境に、どのような能力を持って生まれてくるのか。誰も選ぶことはできません。そして、与えられた寿命という時間を、どのように生きていくのか。その人生模様というものは、千差万別、億差兆別です。一つとして同じものはありません。

 

全ての人が、たった一度の、オンリーワンな人生を歩んでいるにも関わらず、その足元にある根源的な不安は、なぜか共通のものなのです。そして、その不安は、人生に悩み苦しんで弱っている時に限って、鎌首をもたげて襲い掛かってくるのです。

 

自然災害、不運な事故、理不尽な犯罪、金銭トラブル、生活苦、就職難、老々介護、いじめ、パワハラ、セクハラ、うつ病、ガン、人生で起こる様々な困難は、何の前触れもなく、ある日突然に襲い掛かってきて、問答無用で私達の生活を破壊し、大切な人の命を奪っていきます。そのような大きな困難に直面した時、私達の胸をよぎるのは、決まってこのような不安です。

 

私は、何のために生きているのだろうか?

こんなに苦しい思いをしてまで、生きる必要があるのだろうか?

こんな繰り返しの毎日に、何の意味があるのだろうか?

いっそ、死んでしまった方が楽ではないか?

 

それらの問いに答えを見つけられずに、私達は絶望します。人は、簡単に絶望する生き物です。雲を掴むように虚しく響くばかりのそれらの問いに、たった一人答えてくれた人がいます。

 

それが今から約2,600年前に誕生した、お釈迦様です。そして、お釈迦様が説いた教えを日本という国に正しく伝え広めてくれた人が、浄土真宗の開祖である親鸞聖人です。

 

現代の日本では、宗教と聞いただけで拒否感を示す人も多いでしょう。

 

仏教と言えば、死んだ時にお世話になるもの。冠婚葬祭の決まり事の一つくらいにしか認識しかされていないことがほとんどだと思います。反対に、パワースポットだとか、何かのご利益があるだとか、人の欲を叶えてくれる便利なアイテムの一つとして、仏教が扱われることも少なくないでしょう。

 

このような現状は、現代の日本において、いかに肝心の教えが説かれていないかを物語っているように思えてなりません。

 

お釈迦様が、そして親鸞聖人が伝えた教えとは、葬式の礼儀作法でもなければ、夢や希望を叶える魔法の呪文でもありません。それは端的に言って、このようなことです。

 

人生に目的はある。

そして、それは生きている間に達成できる。

だから速やかに達成して、幸せな一生を過ごしなさい。

 

私達の足元にある底知れない不安。そこから私達を救い取ってくれる教えこそが、仏教であり、浄土真宗の教えです。

 

全ての人には、共通の生きる目的があります。そして、それは生きている間に達成できるのです。

 

人生の目的が達成できれば、いつ死んでも、満足な一生だったと、安心して命を終えることができます。そのような状態に救われることこそ、本当の意味で幸せになるということだと、お釈迦様は、そして親鸞聖人は教えているのです。

 

これだけを聞いて、ああそうか、仏教とは何と有難い教えだろうかと、素直に感謝できればいいのですが、そういう訳にはいきません。

 

ほとんどの人は、何を言っているのか分からない。それどころか、騙されているのではないかと、疑いの心がふつふつと湧き出して、教えを拒絶してしまうのです。

 

それが、現代を生きている私達の大多数の価値観ではないでしょうか。そこまで宗教離れが進んでしまったという現状もまた、肝心の教えが説かれて来なかった証拠なのでしょう。

 

しかし、現状を嘆いているだけでは何も変わりません。

 

せめて一人でも、真実の仏教に出会い、幸せな身の上に救われる方が現れることを願って、私なりに精一杯工夫をして、言葉を紡いでみようと思います。