行ってきました


□ハンブルク展について
ドイツ第二の都市ハンブルクに、1877年に誕生したハンブルク美術工芸博物館は、中世から現代までの美術工芸品を集めたドイツ有数の博物館。
ヨーロッパの美術工芸品を中心に100万点を超える収蔵品を擁している。
草創期より日本美術コレクションが充実していたが、浮世絵は草創期の収集と近年の浮世絵コレクターによる寄贈品とで成り立っている。
同博物館の創立者であるブリックマンは1873年のウィーン万博博覧会で日本美術に出会い魅了された。
ブリックマンは日本の絵師や職人たちの熟練した完璧ともいえる技術、自然との柔軟な対話を感じさせる観察眼などが、ドイツの工芸に新たな息吹きを吹きこむと確信し、その模範とすべく日本の美術工芸を集めた。
同時代のヨーロッパでは同じような目的でV&A美術館(イギリス)などが建設されている。
そうした目的からすれば、完成して商品となった浮世絵や冊子もさることながら、制作のプロセスを語る画稿や版下絵、板木は単なる資料以上の、とても重要な収集対象であった。
・画稿(がこう)=版元の意向を汲んで絵師が構想を練るためにデッサンしたもの。草稿。
・版下絵(はんしたえ)=画稿をもとに描かれる決定稿。
・校合摺(きょうごうずり)=最初に彫られるのは墨線だけの版で、そこから摺りだされる墨一色だけの版。これによって絵師が色の指定を行い、さらに色版が彫られていく。
ブリンクマンの浮世絵コレクションを強化したのが、故ゲルハルト・シャック氏の収蔵したコレクション。
彼は浮世絵に魅了され青年期から収集を始めた。
決して経済的に恵まれていたわけではなく、資産は限られていたが、その分鑑識眼は研ぎ澄まされ、厳選されたコレクションが形成された。彼の没後2600点に及ぶ作品が同美術館に寄贈された。
今回の展示では日本初公開の浮世絵コレクションが展示された。
□浮世絵制作過程について(Netより抜粋)
浮世絵の場合、特徴的なのは、「下絵を描く」、「版木を彫る」、「紙に摺る」という3つのプロセスが、それぞれ専門職として分業化されていることです。
各プロセスごとに、「絵を描く専門家」、「版木を彫る専門家」、「紙に摺る専門家」がいて、それぞれ順に絵師、彫り師、摺り師と呼ばれています。
絵師は、版元(出版社)からの依頼により、下絵を描きます。ただし、何でも好きなものを描いてよいわけではなくて、絵の内容に関してはきちんと版元の企画意図に沿ったものを描かなければなりません。描き方にも細かいルールがあって、たとえば役者絵で3人横並びの絵を描く場合、「主役は必ず真ん中に配置しなければならない」といった具合に、その役者の格や歌舞伎の演目内容に応じて、人物の配置から描く大きさ、着物の柄まで、きちんとルールに則って描き分けなければなりませんでした。
逆に、絵を見る側はこうしたルールさえ理解していれば、その歌舞伎の配役から役者同士の力関係まで、1枚の絵からかなりの情報を読み取ることができたわけです。
加えて検閲もありましたから、絵師の独断で勝手に出版できるようなものではなく、何を描いてもよいというものでもありませんでした。
浮世絵を製作するにあたって「検閲」があることや、絵の内容や色指定に、絵師よりも版元の意向が大きく影響していたため、絵師はあくまで請け負い仕事・納期仕事の「画工」でしかないと言えます。
浮世絵は現代の芸術家のように、浮世絵師が自由奔放に創作していたものではなく、実はそうではなくて、重要なのは、主導権を握るのはあくまで版元だということです。
浮世絵が芸術品として評価される今日では、絵師の存在ばかりがクローズアップされがちですが、先にも述べたように、浮世絵と現代でいう絵画とは性格の異なるものであって、あくまで協同作業による合作物ですから、絵師一人の力だけで作品化できるものでは決してなかったのです。
歌麿だろうが北斎だろうが写楽だろうが、浮世絵師といわれる人たちが描くのはあくまで「下絵」までで、最終完成形に仕上げるためには、彫り師、摺り師たちの手助けが不可欠であったことを忘れてはいけません。
□摺物について
私たちが浮世絵と聞いて頭に思い浮かべる写楽や歌麿の作品は一般的に多くの部数が摺られた商品たが、それをプライベートで楽しむためみ個人の依頼で制作されたものが摺物だ。
商品として出版される浮世絵は、版元の意向や経済状況に左右されるのが常でしたが、摺物は個人が出資するために制作コストに縛られることなく、高級な用紙や高価な絵具を使ったぜいたくな作りにすることができた。
お勉強になりました

今回の作品で気になったもの
・吉原八景 菱川師宣
鮮やかな色彩で描かれる吉原の風景が好き
・曲水 春信
・道外化もの夕涼み 歌川国芳
・花鳥風月のうち風
その場に風を感じるようだった。
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