細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

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遺棄毒ガス問題


帝銀事件と薬害エイズ事件



未解決事件 File.09 松本清張と帝銀事件 第1部 松本清張と「小説 帝銀事件」
初回放送日: 2022年12月29日


戦後最大のミステリー「帝銀事件」の新たな真実に迫る衝撃のドキュメンタリー
NHKスペシャル「シリーズ 未解決事件 File.09 松本清張と帝銀事件」


あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??

新潟県の養鶏場で鳥インフル確認 高病原性なら約130万羽処分へ
群馬県 鳥インフルエンザで約1万3千羽の殺処分完了を発表

「激戦地の土砂を使わないで」全国227の議会が意見書を可決 沖縄・辺野古新基地への使用中止求める
防衛費43兆円…最優先すべきは何か? 重鎮・山崎拓氏「戦争はどんなことがあっても避けるべき」
与那国ミサイル配備に反発 玉城知事「唐突な予算計上」

ミサイルが飛んできても「反撃しない」ことこそが日本の抑止力だ
立民、反撃能力「容認できない」閣議決定受け声明公表
「報道特集」膳場貴子アナ 岸田政権の安全保障政策を疑問視「専守防衛も変質しかねない」
“弾薬だけ”で8200億円 来年度当初予算案、防衛費が25%増の過去最大 総額114兆円程度で最終調整
関口宏 安保関連文書に反撃能力明記に「これからの日本が変わってしまう大きな岐路に」
【詳細】ロシア ウクライナに軍事侵攻(5日の動き)
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展


731・原爆・ビキニ




2022年 パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」アンケート
12月21日(水)
11、第五福竜丸保存が思いがけないステップを経て、展示されることは存じませんでした。都合の悪い所を「なきもの」とすることに日本が協力するという反国民性は昔も今も変わらない。戦争の準備をし、エネルギー危機をあおって核を使用する動きには本気で止めさせる。ウクライナは他山の石、対岸の火事ではないと思います。(51歳以上、日野市、チラシ)


2022年は八王子市非核平和都市宣言から40年!!





飯田市平和祈念館の問題と清水英男さんの証言

731部隊員の戦後




飯田市平和祈念資料館の展示の見直しを!!





2022/10/22 清水さん宅にて



 


731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

 

731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村

 


731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。

 「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。

 清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・











久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室

 


ビキニ事件|被ばく船員の救済を求める2つの裁判にご支援を

「731部隊員だった池田苗夫元軍医の戦後の軌跡」

「生体実験命令を拒否した医学者・横山正松」
「731部隊と大連黒石礁事件」

「731部隊と登戸研究所」
731部隊について





■731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022081700086
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」





今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた。



https://jams.med.or.jp/jams120th/
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。

 

大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??

重慶無差別爆撃





●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

                       

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

 

 

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu.goi@gmail.com

 


日本の中国東北侵略から91年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』


四月二三日

「今までのうち川角さんが一番好きだったでしょう」「ええ、でも貴男も好きよ」「あんなこと云ふ お世辞が上手ね」「あらお世辞ってなーに?」仕舞った 小さい人達だ 一人の子が云ふ「兵隊さん 私の家ね もうすぐ大きいタンス持って内地に帰るのよ お母さん言ったの ほうとうよ」「いいのね 兵隊さんと一緒に帰りましょうか お父さんとお母さんに話して頂戴ね」「ええ 話して 一緒に内地の花見に行きましょう」「れいちゃんはこの間炭坑にきたばかりでしょう それま何處にお父さんといましたか」





軍都広島での物語
●原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

仮繃帯所にて

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を



メアリーが伝えるヒロシマ
広島原爆投下
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
封印された原爆報告書




●『細菌戦部隊』
731研究会編  1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』
731研究会編

Ⅰ 731部隊

昆虫班でのノミの増殖
ノモンハンでの細菌撒布も

鶴田兼敏(つるたかねとし)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1921年生まれ
1938年 731部隊に入隊(少年隊・田中班)
1939年10月 退職
1945年12月 帰国
■この証言は佐賀731部隊展(1994年12月)の『報告集』をもとに本人がまとまたもの。

ノモンハンでの細菌撒布
 そうしているうちに、9月16日の停戦になったわけです。部隊に帰って来たのは、20日ぐらいでした。ところが一緒に作業した私達の内務班長だった衛生軍曹が、ちっとも帰ってきません。どうしたのだろうと思っていたのですが、そのうちハイラル陸軍病院の伝染病棟で、チフスで死んだという事がわかりました。それで、あの時に河に流したのはチフス菌だったと分かったわけです。チフス菌を撒くのが、私達の主目的だったわけですね。防疫給水班というのは名前だけで、私達は謀略的な作戦に従事させられていたのです。



●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行


第2 731部隊に関する研究状況

三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況

 5 中国による資料の刊行と各国資料との相互論証関係

(1)人体実験の事実を知っていた責任者の範囲

柄沢十三夫は、ハバロフスクの裁判では次のように答えている。

 問、貴方が部隊にいた当時、関東軍の高級将校中、誰が部隊を視察したか述べてもらいたい。
 答、部隊に来たのは、元関東軍司令官梅津大将、参謀長木村中将(後に大将)、宮田中佐、即ち竹田宮、日本
   関東軍元軍医部長梶塚軍医中将であります。(同右、327頁)






●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明(2004年発行)




Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936

4  2.26事件

毒ガス使用の検討

 反乱軍は旧式のガスマスク約150個を持っていたが、それを通過する嘔吐性ガス(あか剤)の使用が催涙性ガス使用と共に命令されたのである。午前6時、練習隊は第1師団の指揮下に入り、攻撃の準備を行った。使用法は軽装甲車で障害物を突破し、発煙使用するというものだった。

海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!





・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳 明石書店 1995年発行)

おわりに

中国東北の歴史は侵略者たちの略奪と暴行による血塗られた記録であり、幾多の民族の志士たちが命を懸けて闘った抵抗の歴史であり、被侵略の屈辱の歴史でもある。今、抗日勝利50周年を迎えて、この間の歴史を正しく理解するには、中日双方の相互交流と協力なくしては明らかにすることはできない。
 私たちのこの思いは、多くの日本の友人の共感を生み、新しい協調の輪が広がった。私たちは調査研究の実際行動の中で、志を同じくし、社会に対しての責任感を持った日本の善意の人々に会うことが出来た。

 



核時代39年(1984年)5月初版発行

●『三光』     中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行


日本鬼子(リーベンクイズ)

強姦
赤ん坊を殺し母親を犯す

石田幹雄
兵長
〈略歴〉
1913年 山梨県の中農の家に生まれ、
1928年 小学校卒業と同時に東京に出て、印刷労働者となり、
1941年10月20日 補充兵として東部63部隊に入営。
1942年5月末 中国に侵略し、
1945年8月22日 59師団54旅団110大隊兵長として朝鮮においてソ連により武装解除を受ける。

 私が匪賊だと教えられていたのは、他でもないこの野良仕事に精出していたお百姓さんであり、悪者だと信じていたのが、平和な幸福な生活を侵略者どもにぶち壊されるのを防ごうとして闘った人たちだった。こうした戦争の真実は人々に隠され、“戦争”の名の下に、上は師団長から下は私のような一兵隊に至るまで、普通の世の中では到底できない事を・・・・人間の良心をもった者には絶対許されぬ悪事の振舞いを、白昼公然と行ってきたのだ。戦争で何をやったか?国民の眼をごまかすために躍起になっている為政者に対する憎しみと同時に、私自身が戦争の虜となり、人間性を失ったために、世の中の人たちにどれだけ呪うべき悲惨な不幸をもたらした事か・・・・





●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行 )
            藤井治夫著


第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)


研究―四
 三矢研究事前研究項目(対米関係事項)

第2 情況の緊迫に応じとるべき具体的な統幕在日米軍司令部間の連携のあり方
1、自衛隊及び在日米軍に関する事項
 a 作戦準備          A2 〇 A3 ◎
(1)補給物資の集積
(2)部隊出動準備
 b 警戒措置          A1 〇 A2 ◎ A3 ◎ B ◎
   哨戒、防空警戒態勢、自衛警戒
 c 兵力展開及び米軍の海外よりの増援  A2 〇 A3 ◎ B ◎
 d 作戦方針          A1 〇  A2 〇 A3 ◎ B ◎
   日米両部隊の果たす機能と協力体制
e 実施
  (1)協同作戦
     防空作戦、船舶運航統制及び護衛、沿岸及び港湾防備、対潜作戦、通峡阻止作戦、
    対上着陸作戦、着上陸作戦、基地防衛、緊急輸送
  (2)核兵器の持込及び使用  A3 ◎ B ◎
  (3)在日米軍の日本周辺の戦線に対し実施する作戦   A3 ◎ B ◎






●『BC兵器』久保綾三著(1969年)


「化学学校記事」
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

2、ベトナムにおける生物・化学兵器使用とその背景

アメリカにおける生物・化学兵器の開発

米下院外交委員会の「化学の発展と米国の対外政策」に関する分科委員会(69年3月)で、参考人として出席したハーバード大学のジョージ・キスチャコフスキー教授が「細菌兵器はいまや戦略兵器として使用可能な段階に達している」と証言して、米国内のハト派の度肝を抜いた。
 BCW(生物・化学兵器)関係の研究・開発については、米軍部でも最高の機密になっている。国防総省当局は、「火の広がらないうちに」とばかり、上下両院の関係各議員を招き、米国のBCW計画の概要を説明したが、これがまた逆効果になった。






●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか





●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!



第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年


1、摂政時代と大正デモクラシーの危機

 この間1922年には、国内の融和とエリート間の合意の崩壊に対する宮内省高官の反応に合わせて、宮廷の雰囲気も変わり始めていた。内外政策をめぐる支配エリート間の対立は第1次世界大戦中に表面化したが、1917年から22年初めまで続いた臨時外交調査委員会によって糊塗されてきた。政党は選挙基盤を拡大し、これまで陸軍の領域だった植民地ヘも影響力を拡大する道を探っていた。政友会の高橋のような政治指導者は、原もそうだったように、日本の経済的繁栄のためには、アメリカの利益に合致した政策をとる必要があると考えた。ワシントン条約によって政府が最近承認した大規模な軍縮義務は、この高橋の見解と一致するものだった。だが、右翼陣営や一部の軍人はワシントン条約を非難した。皇太子の武官長である陸軍中将奈良は、この時期を次のように回想している。「予等は殿下御渡欧以来の御意図もあり御殿内の晩餐等には軍服を用ひずモーニング燕尾服等を着用せしも、段々世間の空気も顧慮するの要を感じ、11月始め珍田大夫にも相談し爾今成るべく軍服を着用することゝしたり、但し殿下には何等申上げず」