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「日本軍の毒ガス」展来場者からのメール!!
今度の9/18(金)に、1931/9/18の満州事変を侵略戦争の契機とみなして、侵略の始まった日に不戦を誓おうという趣旨のデモをしようかと考えております。
時間は19:30~21:00で、場所は新宿駅南口の予定です。
🔴今までの、核軍拡競争、戦争、車社会等の原因で、地球の気候変動は一挙に進んでいる!!
日本政府は、核兵器廃絶を世界にもっとアピールすべき!!
追悼!!張本勲さん!!
「核兵器は全世界でなくさなきゃダメですよ。武器で殺し合うような戦争は、絶対にやってはいけないんだ」
「ヒバクシャ」張本勲さん、死去4日前の言葉「時間かかっても」
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●9月6日(日)(於)北海道美唄市
中国人強制連行犠牲者追悼式
中国人犠牲者のお名前
碑 文
第二次世界大戦中、日本国政府の閣議決定「華人労務者内地移入に関する件」に基づき、約 39,000 人の中国人労働者が日本に強制連行されました。その一部である3,765人の中国人労働者は、三菱マテリアル株式会社の前身である三菱鉱業株式会社及びその下請け会社がその事業所に受け入れ、劣悪な条件下で労働を強いられました。この間、722 人という多くの中国人労働者が亡くなりました。
北海道には 1,637 人の中国人労働者が(三菱美唄炭砿704 人、三菱大夕張炭砿680人、雄別炭砿253人)配属されましたが、357人の中国人労働者が亡くなられました(三菱美唄炭砿 119 人、三菱大夕張炭砿 233 人、雄別炭砿5 人)。2016年6月1日、三菱マテリアル株式会社は、中国人元労働者の人権が侵害された歴史的事実及び歴史的責任を率直かつ誠実に認め、痛切なる反省と深甚なる謝罪、哀悼の意を表明し、中国人元労働者との間で、「歴史・人権・平和」基金の創設を約する和解が成立しました。
『過去のことを忘れずに、将来の戒めとする』 。
私たちは、未来永劫日本と中国の友好関係が発展していくことを願い、二度と過去の過ちを繰り返さないよう、「歴史・人権・平和」基金の事業の下、ここに「日中友好平和不戦の碑」を建立し、この事実を次の世代に伝えていくこととします。
2024年9月
「歴史・人権・平和」基金
「日中友好平和不戦の碑」建立北海道委員会

中国人強制連行・強制労働事件張世傑さんのケース
中国人強制連行・強制労働事件 張智有さんのケース
『三菱マテリアル 中国人強制連行労働 訴訟と和解、追悼の記録』
私たち弁護団は、この31年余の活動を通して
日中友好の確立と促進の基礎となる歴史認識の確立のため、
多くの日中両国の歴史研究者との協働を追究してきた。……
本件「三菱マテリアル和解」とその後今日も続く全国各地の
「慰霊追悼事業」は、小さな一歩ではあるが、私は、
「日中の国民の合作」による歴史的快挙と受け止めている。
小野寺利孝・中国人戦争被害賠償請求事件弁護団団長
日本評論社
中国人強制連行犠牲者追悼慰霊式(於)北海道美唄市
中国人強制連行犠牲者慰霊式ダイジェスト
法話
NO 3 慰霊碑にて 2026、9、6(令和8年)
皆さまご苦労様です。 私は 三菱美唄炭鉱で働いていた皆さん方と 生活を共にしてまいりました 常光寺の前住職 杉田英明(96歳)です。
1945年 終戦の年は、 私15才の年でしたが、 この折の過酷な 思い出の1ツを 今日はお話させていただきたいと思います。
天候の良い よく晴れた日でした。 息せき切った1人の青年が、脱兎のごとく玄関に飛び込んで来た。 正面の 部屋を突き切り 山側の窓を開けてそのまま外に出、 裏山の崖をよじ登り よじ登りして 消え去った。 裏には未だ沢山の雪があった。 青年の服装は、はだけたワイシャツ姿にフンドシ1ツ 素足だった。 今では 一瞬の出来事の様に 思い出されます。
暫くして、 それぞれに 2m近い棒をもった叔父さんが 2人来て言った。
“今タコが逃げて来なかったか”と。 “さあ 来ませんでしたけど 解りませんでした”等と 嘘の言葉で応対している母の姿と 首を傾げながら不審そうに帰る 来訪者の残像が 亦思い出されます。
この事件は、 その後何度も 私の心に出没しました。 何かが 私を落ち着かせなかったのです。 然しこの度のご縁で、 少しは学ぶ所等も有りやっと 納得することが出来ました。
今は 唯 ホッとしたこの心の安らぎに 出会えた事を省みて、 皆様方に 深く感謝申し上げたい 思いでおります。
青年の名は 馬三文36才。 この方は、終戦の前年・1944年9月、中国から徴用工として連れて来られ、三菱美唄鉱・旭台大和寮に 収容された方々の中の お1人でしたが、 翌1945年の晩秋、故人となり帰国されました。
記録には、 出身地 河北省 臨楡県石門、 死亡日は 5月5日、 原因は 飢餓 疲労に因る衰弱死・同年5月3日の脱走で死亡と 記されて有りました。
注記には、「5月1日頃より 腹具合の悪さを指導員に申し出ありしところ、5月3日午後6時頃 二番方入坑の時 脱走、 其のまま山中を彷徨し、地理不案内の上 飢餓 疲労のため死亡・・」と有り 亦、死体発見の場所等については、 収容所があった 旭台・大和寮の すぐ近くの 坂道の途中。 未だ残っていた雪の ヒサシの中で うずくまったまま手には小さな マントウを1ツ握り・・と、その 様子が記されて有りました。
青年の消去った 常光寺の裏山を登れば、 平坦な畑地となり 真っ直ぐ見通せば、手前に国設スキー場・その向こうに旭台 大和寮の灯火が見える筈です。
大和寮の葬儀は、寮長がお寺の檀家でもあった為か 私の父が行いましたので、 私は 過去帳を調べてみました。 1945年11月1日付の 特別過去帳でした。 青年の名前も確認できました。
過去帳の末尾には、 大和寮に収容されている方々が、 この度急に 全員帰国することになったので、 亡くなられた方々も 一緒に帰国できる様にと、急速 法要を勤め、 お預かりしていたご遺骨の 全部を、 同年11月24日の日に 大和寮係員・引率者 立合いのもと 帰国の方々に渡した旨が記されて有りました。
私は 寮長 沼友三郎さんの この日の緊張したあの顔と、 引率者各自・1人1人が ご遺骨を首から胸に抱いて 常光寺を去った時の 白布の白さが忘れられません。
終戦の前年 1944年の晩秋に、 三菱美唄炭鉱 旭台・大和寮に収容された1人の青年が、故人となって、 翌1945年11月24日の晩秋に、この地を去り、中国へ帰られたと言う 痛ましくも亦 過酷な話でした。
終わります。ご清聴有難うございました。
なぜ、三菱マテリアルは和解に応じたのに、三井は応じない??
中国人強制連行(美唄の場合)――人数はかなり正確に分かっています
美唄市自身が2025年2月号の広報で、外務省管理局の資料に基づく数字を紹介しています。1944年7月以降、美唄に割り当てられた中国人は次の3事業場に分かれていました。
事業場 中国からの人数 死亡者数の資料値 主な収容場所
三菱鉱業美唄鉱業所 289人 29人 旭台「大和寮」
鉄道工業美唄出張所 415人 90~91人 盤の沢「興亜建設隊寮」
三井鉱山美唄鉱業所 597人 163人 奥の谷間「明華寮」
合計 1,301人 282~283人 ―
ここは数字に一つ注意があります。日本中国友好協会北海道支部連合会の集計では、三菱29人、鉄道工業91人、三井163人で、合計すると283人になります。一方、美唄市広報は「乗船中を含め282人が死亡」としています。したがって展示などでは、無理に一方へ統一せず、**「外務省関係資料では282~283人。集計方法に1人の差がある」**と注記するのが最も安全です。
さらに重要なのは、1,301人全員が美唄に到着したわけではないことです。美唄市によれば、中国の港を出る時点で1,301人でしたが、航海・移送中の死亡や逃亡などにより美唄到着時には約1,250人まで減少していました。戦後に帰国できたのは約1,015人とされています。北海道教育大学系の研究では帰国者を1,008人としており、ここにも若干の資料差があります。
とりわけ死亡率が高かった三井美唄
三井美唄は突出しています。
597人が乗船し、そのうち46人が事業場到着前に死亡、実際に三井美唄に到着できたのは551人でした。裁判記録にもこの数字が認定事実として現れています。その後を含め死亡者は163人、死亡率は資料上**27.3%**です。
つまり、ほぼ4人に1人以上が死亡したことになります。
北海道慰霊追悼式 森田弁護士挨拶 2026・9・6
本日、北海道で強制労働させられました中国の方の強制連行・強制労働の被害者を慰霊・追悼する事業が無事に行われました。 中国人戦争被害賠償請求事件弁護団の一員として、ご挨拶をさせていただきます。
先のアジア太平洋戦争の時期に、日本は中国に侵略し、数々の犯罪を犯しました。 南京事件、慰安婦事件をはじめ、この強制連行・強制労働事件もその一つでした。
その事実を明らかにし、この強制、日本政府と企業の責任を求めて、中国人から強制連行された元労働者の被害者の方たちが来日して、1995年以降、日本各地で裁判を行いました。 そして、2016年の6月の一日、北京で被害者のうち生存している労働、3名の方が代表となって、三菱マテリアルと歴史的な和解を結びました。 それ以降、中国の人権発展基金会が受け皿となり、中国国内で調査活動が進められ、その結果、3,765名の被害者のうち、1,914人の被害者の遺族が見つかって、謝罪の証としての基金を受け取ることができました。
その和解の一環として、強制労働をさせられた各事業所において記念碑を建立して、和解事業を行うことになりました。 和解事業の調査活動は2024年10月で一応終了しましたけども、さらに5年間、三菱マテリアルが遺族の方の訪日費用を出して、この慰霊・追悼事業のが、現在も継続して進められています。
この三菱和解の記念碑は、全国で6ヶ所、今、建立されました。 北海道には美唄、大夕張、夕別炭鉱に1,637人の中国の方が強制連行されましたけども、その中で357人もの多くの方が死亡されました。 三菱マテリアルは、この人権が侵害された事実を認めて、そして、その歴史的責任に対して真摯かつ誠実に謝罪の意を表明しました。
現在、日中関係は高市首相の台湾有事の発言を理由に、政治も経済も、その他文化でも多くの交流が中止されています。 こうした時期に今回、43名の被害者遺族の方がこの慰霊祭に参加していただきました。 本当に大きな意味を持っています。心から歓迎をしたいというふうに思います。
この記念碑と慰霊・追悼の事業は、私たちのような民間と民間の事業として取り組まれていますが、過去の事実を忘れずに、今後の日中両国の友好関係を築きあげていくための友好の架け橋というふうになります。 中国の皆さんにはぜひ日本に来て、このような取り組みが多くの市民によって今もずーっと行われているということをぜひ知っていただいて、中国の方にも伝えていただければというふうに思います。
そして最後になりますけれども、今後とも末長く、日中の市民が手を携えて、この事業をぜひとも継続させて、友好と平和を築いていくように、心からお祈りして、挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。
(拍手)
※朝鮮人強制動員――中国人よりさらに規模が大きい!!
●「日本軍の毒ガス」展in横浜
神奈川新聞 2026年(令和8年)8月24日 月曜日 社会 16
歴史に向き合う 時代の正体
毒ガス戦の実態伝え
かながわ県民センターで展示会
県内で製造 今なお被害
第2次世界大戦で日本が展開した毒ガス戦について学ぶ「日本軍の毒ガス展」が23日、横浜市神奈川区のかながわ県民センターで始まった。敗戦時、日本は使わなかった化学兵器を中国各地で秘密裏に遺棄し、漏れ出た毒ガスによる市民の健康被害が絶えない。戦後81年、今なお続く被害者の苦しみを写真などで生々しく伝えている。同展横浜実行委員会の主催で28日まで。
(柏尾 安希子)
毒ガスなど化学兵器は、第1次世界大戦で使用され、大きな被害をもたらした。1919年のベルサイユ条約締結時に使用は禁止され、25年には毒ガスや生物兵器の使用禁止を定めるジュネーブ議定書がまとめられたが、当時日本は批准しなかった。
第2次大戦が始まると、陸軍は広島県の大久野島や福岡県の曽根などで、海軍は寒川町の相模海軍工廠で、イペリットなどの毒ガスや化学兵器を製造。それらを中国に持ち込み、実戦で使った。陸軍が製造した毒ガスは6616㌧、海軍は760㌧に上るとされる。
同展は、こうした実態を伝えようと企画。毒ガスの製造に至る道筋や、戦訓の具体例、遺棄兵器により現在も続く被害を伝えるパネルなど約150点を展示している。実行委の五井信治さん(69)は「中国ではいまだ遺棄物による被害が続くが日本は補償せず、戦争は終わっていない。日本が軍拡を進めるいま、戦争の実態を知り、考えてほしい」と語る。
期間中、ミニ講演やビデオ上映も行われる。23日には、中国の被害者を支援するNPO法人「化学兵器被害者支援日中未来平和基金」理事の菅本麻衣子さんが講演した。
菅本さんは、2000年代も中国で相次ぐ遺棄兵器の被害や、被害者による日本政府への損害賠償請求訴訟を紹介。また、02年に寒川町で遺棄化学兵器が発見され、04年には平塚市で土壌汚染が発覚するなどの国内の被害も説明した。
「日本は違法性を認識し、使用が発覚すれば連合国に戦争責任を追及されるため化学兵器を遺棄し、使用の事実を隠した。証拠隠滅の指示命令や兵士の証言もある」。「宮本さんはこう語り」「中国ヘイトの広がりを危惧する。日本でも中国でも、戦争があれば何十年を経ても被害を受けるのは同じ一般市民だ」と訴えた。
講演を聞いた東京都の派遣社員、中村久美子さん(47)は「戦争での毒ガス使用は知らなかった。戦争はいろいろな被害をもたらし、その後も被害は残っていくのだと分かった」と話していた。
日本 横滨举办“日军毒气展”揭露军国主义暴行
横浜で「日本軍の毒ガス展」 市民団体が主催
横浜で「日本軍の毒ガス展」開催 軍国主義の暴行を暴く
【横浜で「日本軍の毒ガス展」開催、侵略の歴史を忘れず、戦争の悲劇の再発に警鐘】
戦争の悲劇の再発に警鐘】日本軍による毒ガス戦 ... - Facebook
豊島長生さんの原爆被災衣服
遺棄化学兵器被害と、NPO化学兵器被害者支援日中未来平和基金の活動について
制服が語るヒロシマ
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旧日本軍毒ガス弾等の処理に関する問題
毒ガス島の悲劇
花(園芸)博会場のPFAS問題
日本軍の毒ガス戦
広島への原爆投下とわたし
平頂山事件の真実
神栖と土呂久を結ぶ亜砒酸
●来場者感想
8/23(日)
6. ①70 ②川崎 ③その他・会場にて ④-
私の父母・長兄・次兄は1943~1945年に山西省太原に居て、母・長兄・次兄は1944年2月に着の身着のまま、南九州の実家に帰国しました。父はその後どんな軍隊生活したのか、全く不明ですが、こちらの展示で、大変な体験をしたのだろうことが推測されます。もっと父の体験を追跡調査せねばと実感しました。










