細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

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飯田市平和祈念資料館の展示の見直しを!!




2022/10/22 清水さん宅にて

 


731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

 

731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村

 


731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。

 「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。

 清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・




 
















久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室


ビキニ事件|被ばく船員の救済を求める2つの裁判にご支援を

「731部隊員だった池田苗夫元軍医の戦後の軌跡」

「生体実験命令を拒否した医学者・横山正松」
「731部隊と大連黒石礁事件」
731部隊被害者遺族を訪ねて
「731部隊と100部隊」と「人獣共通感染症」
731部隊と人権ー裁判から考える
人骨問題と731部隊
「731部隊と登戸研究所」
731部隊について
731部隊と100部隊ー人獣共通感染症への戦争動員
731部隊を追究する市民活動ABC企画委員会のあゆみ
感染症の世界史への日本の遺産
「スペイン風邪」と陸軍軍医学校
人骨発見33年目の追悼
731部隊・100部隊の戦後責任
オリンピックに翻弄された日本のパンデミック対策







■731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022081700086
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」





今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた。



https://jams.med.or.jp/jams120th/
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。

 

大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??

        重慶無差別爆撃


昨年のパネル展
11月14日(日)~19日(金)


新型コロナ・パンデミックと731部隊・100部隊の影
「核なき未来へ」

2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
11月18日(木)
・まず731部隊展についてまとまった資料展を行われた関係各位に最大限敬意を表したいと思います。沢山のパネルによるまとまった展示を見るのは初めてです。改めて日本の侵略戦争の残虐性を知ることができました。今後私自身「731部隊・・・」の知識を深めていきたいと思います。
(70代、市外)


 


●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

                       

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

 

 

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu.goi@gmail.com

 



日本の中国東北侵略から91年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』


四月四日

非常に冷たく手足が痛む。こんなバカげた気候ではせっかく出した芽が引っ込んで仕舞う。監助手として勤務すれど 手足の痛さでジ―っとしていられず絶えず跳ねている。
今日は特さんが少しも気合をかけない。なんでも中島を殴ったそーだ。ある失言問題。それは書きたいけど書けない。議会の失言は口で騒ぐが軍隊の失言は手で事をつける。これが可か否か僕の知る限りではないが、何にしてもあまりに大人げない仕業ではないかしら。
大人で思い出したが今日も兵隊さんらしい小供さを二か所に見た。一つは監的溝で五厘玉の奪い合いで見、今一つは酒保で二十三歳の大人殿が一杯五銭のうどんの入れ物をはしでたたきつつ運んでは席に着いたところを見た 面白いではないか。




「ずっと父が嫌いだった」

軍都広島での物語
●原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

希い――「原爆の図」によせて――

こののまえに自分を立たせ
この酷烈のまえに自分の歩みをさせよう

夏を追って迫る声は闇よりも深く
絵より絵へみちた涙はかわくことなく重く
まざまざと私はこの書中に見る
逃れていった親しい人々 死んでいった愛する人たちの顔を


メアリーが伝えるヒロシマ
広島原爆投下
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
封印された原爆報告書
封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。

 


 

 

 

 

原爆初動調査1

1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。

 


原爆初動調査ー隠された真実2
原爆初動調査ー隠された真実3



●『細菌戦部隊』
731研究会編  1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』
731研究会編

 Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・

鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。

毒ガス実験
ハルピン市郊外には、毒ガス実験が何か所かありました。安達実験場の隣に山を背にした実験場があり、そこで行われた生体実験に使役として立ち会ったことがあります。私は安達実験場にも2回ほど行きました。そこでは、何日かおきに何らかの実権を行っていたようです。
 ある時、毒ガスの人体実験が行われたことがあります。2,30人の“マルタ”が木柱に後ろ手に縛られて固定されているところに、毒ガスのボンベの栓の口が開かれました。その日は、関東軍のお偉方が大勢視察に来ていました。竹田宮(たけだのみや)も来ていました。一週間以上も前から、気象班が風向きや天候を調べていまして、この日は大丈夫だということだったのですが、そのうち風向きが変わり、視察している人たちの方に流れてきて大騒ぎで逃げたわけです。それで中止になりました。
 


日本軍政下香港(1997.7.27)

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行


第2 731部隊に関する研究状況

三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況

 2 731部隊作成資料の発見

(1)イペリットガスと破傷風菌による人体実験

3枚の地図を示すように、第1地域には5名、第2地域には6名、第3地域には5名の人間が配置され、「被検物」には各々3桁の番号が付けられている。第1地域の2倍のイペリット弾を第2地域に、3倍を第3地域に発射し、人間に与える効果の差異を明らかにしようとしており、配置された16名のうち15名の「被験者ノ症状及其後ノ経過」が20頁にわたり詳述されている。この中の1人(265号)は、9日に1度ガス弾を浴び、さらに11日に「監視所内」に「無装備」で夜間6時間放置される(これを「持久効力試験」と称した)というように、2重に実験対象にされている。




消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」




●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明(2004年発行)




Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936
1 満州事変と催涙ガス使用問題

第1次上海事変開始と海軍

次に、海軍艦政本部第1部にいた安井保門元大佐は、「手投催涙弾及び手投クシャミ弾等は或程度まで、整備され、上海事変以後の陸戦並に警備用として使用した」と述べている。この「上海事変」が第1次(1932年)なのか、第2次(1937年)なのか必ずしもはっきりしないのだが、2つの回想を重ね合わせると、第1次上海事変前後から海軍陸戦隊が少なくとも警備用として催涙ガスを使用した、ということはできるであろう。







海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)


日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!





A事案区域内における土地改変時の対応について より
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
遺棄毒ガス・砲弾被害賠償請求事件 東京高裁 判決 2007.7.18
中国での毒ガス兵器遺棄を巡る戦後補償問題


・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳 明石書店 1995年発行)

第13章 毒ガスは消えず


死の谷踏査記

 黄春勝さん(76歳、敦化県林勝郷の農民、1947年、毒ガス弾に接触して被毒)は語った。
「日本が降伏してからの数年間は、わしは馬鹿溝に草刈りに行きました。あの頃溝には日本人の置いていった砲弾がいっぱいあった。数と言ったら、そりゃ多かったよ。どのくらいあったのか、わしにもはっきりとはわからん。一列一列並べてあったが、わしの見たところでは4列ありました。1列は1 mぐらいの高さで、長さは、そうさな、400m ぐらいあっただろうか」
 総じて、敦化地域で暮らしたことのある60歳以上の老人は、ほとんど皆日本軍の毒ガス砲弾のことを知っているのである。しかもこうした砲弾が後に敦化県城から東南50 km の山あいに埋められた事も知っている。その山あいははハルバ嶺に位置し、現地の人々はここを「毒ガス溝」と呼んでいる。


大久野島遺跡巡り


核時代39年(1984年)5月初版発行

●『三光』     中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行


日本鬼子(リーベンクイズ)

毒ガス実験
―8名の農民を生体実験に

三上忠夫
軍曹
〈略歴〉
本籍地     千葉県銚子市
出身階級    漁民(小資産)
学歴      尋常小学校6年中途退学
卒業後の職業  漁師
最終部隊    旧59師団歩兵第54旅団独立歩兵第45大隊
捕虜年月日場所 1945年8月23日 北朝鮮咸鏡南道興上里小学校
年齢      37歳

岩流店の東北方の小高い丘の上の窪地に8名の老百姓が肩を突き合わせながら座っており、その正面に全員集合した。
「全域掃討異状ありません」「何か目ぼしい奴はいなかったか」忌々し気に富山が篠原の方を見て言った。「ハッ、おりません」「そうか仕方がない、こいつらを今から赤筒をたいてガス実験をしながら搾ってやれ」「ハッ」篠原が青白い顔に、苦笑いを浮かべながら答えた。「各分隊から2名ずつ警戒兵を立て、残りは全部こいつらを取り巻いて輪を作れ」富山が大きな声で怒鳴った。


●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行 )
            藤井治夫著


第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)

三矢研究第1回合同演習実施要綱
 三矢研究第1回合同研究を次により実施する
          三矢研究統裁官

基礎研究-1
非常事態諸法令の研究
3 自衛隊行動基礎の達成
(1)官民による国内防衛態勢の達成
  2民事
   (1)自衛隊の行なう作戦警備の直接補助組織
   (2)自衛隊行動に対する後方業務援助
   (3)戒厳

   法令研究
    隊法103条、罰則規定 離島の行政(地方総監部へ)

   大東亜戦争間
    総動員警備要綱
    沿岸警備対空監視騒擾警備等
    戒厳令





●『BC兵器』久保綾三著(1969年)


(資料)

生物・化学兵器の効果についての報告書(大要)

1969年7月2日


環境への影響予測不能
1、これらの兵器の生産が効果的かつ無条件に禁止されたならば軍備競争の勢いは明らかに弱まるであろう。多数の人命を奪うこうした兵器の使用は、1925年のジュネーブ議定書、最近では国連総会の決議など国際的な合意によって既に非難され、禁じられている。もし、戦争を目的とした化学薬品、細菌の開発、製造、貯蔵がなくなり、すべての兵器庫からそうしたものが消えうせれば効果的な国際管理のもとでの一般完全軍縮、ひいては世界平和への展望は大いに明るいものとなろう。


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!




第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年


第3章  現実世界に向きあう


貴族の勢力は強いが君主制の不安定なイタリアには、1921年7月10日に到着した。ムソリーニとファシスト党が権力を握る15ヵ月余り前であった。皇太子は8日間滞在し、ナポリ、ローマ、ポンペイを訪問した。いち早くムソリーニの熱心な支持者になる国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世が案内役だった。国王の宮殿に逗留中の7月15日と16日、彼は軍人の勲章・肩章をはずし、2回にわたってヴァティカンを訪れ、ローマ法王ベネディクト15世と挨拶をかわした。法王は第1次世界大戦で仲裁を試みたが果たせず、その後は旧ドイツ皇帝を戦犯裁判から守ろうとした。皇太子はイタリアでも通常の儀礼をこなし、愛国的な戦争記念物を訪ねた。またイタリア軍後援の運動競技を見物したが、軍はこのときすでにムソリーニのファシズム運動の影響を受けていた。