細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

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飯田市はなぜ、歴史をきちんと伝えないのか??
 731部隊元隊員の証言、飯田市平和祈念館が展示せず 市教委「事実関係に議論」
2022/08/17 11:59



元隊員が持ち帰った医療器具などが並ぶ飯田市平和祈念館の731部隊の展示。元隊員の証言は紹介されていない

 戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に伝えるため今年5月にオープンした飯田市平和祈念館で、関東軍防疫給水部(731部隊)の証言などを印刷したパネル展示が取りやめられたことが16日、市教育委員会などへの取材で分かった。住民有志でつくる市平和資料収集委員会が展示を求めていたが、市教委は事実関係が確定していないなどとして見送った。現在、展示は市出身の元隊員から寄せられた医療器具や人体解剖の医学書など十数点だけとなっている。

 取りやめた理由について、市教委生涯学習・スポーツ課は取材に「部隊の事実関係を巡ってはさまざまな議論がある。証言などを伝えたいという思いは理解しているが、公の施設としての展示は難しい」としている。

 市平和祈念館の展示は「戦争の恐ろしさ」「戦時下のくらし」など五つのテーマに分かれている。祈念館設置に向け、同委員会はこれまでに市教委と協力して戦時中の資料を集め、展示内容についても話し合ってきた。

 同委員会は「戦争の被害だけでなく、加害の歴史も伝えないといけない」と、731部隊が細菌兵器の開発を進め、捕虜となった中国人やロシア人に対して人体実験をしてきた―などとする説明文を作成。県内出身の元隊員4人の証言も文章にまとめた。市教委に証言などをパネル展示するよう求め、議論も重ねた。

 だが、市教委は遺品の展示のみにとどめている。同委代表の吉沢章さん(73)=飯田市=は「県内の元隊員らの証言を通じて地域と部隊との関わりを明らかにし、戦争の姿を伝えたかったのに」と割り切れない思いでいる。

          ◇
【731部隊】 生物・細菌兵器の研究開発のため、1936(昭和11)年に編成された旧陸軍の特殊部隊。旧満州(現中国東北部)のハルビン近郊で秘密裏に中国、ロシア人らの政治犯や捕虜に非人道的な人体実験を繰り返し、多数を殺害したとされる。ペストやチフスなどの細菌を研究し、日中戦争で実際に使ったとされる。

久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室

■731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022081700086

731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」


2022/08/17 11:58
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
 
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
 「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
 清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
信濃毎日8月18日(斜面)





今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた。



https://jams.med.or.jp/jams120th/
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。







「生体実験命令を拒否した医学者・横山正松」


ビキニデーin高知






大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??

        重慶無差別爆撃





昨年のパネル展
11月14日(日)~19日(金)


2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
11月16日(火)
・頭が混乱していて感想がすぐには出ない。今日から1ヶ月ぐらいかかると思う。
戦争が不条理と思います。部隊全景の航空写真と地図があっていない様に思いますが。道路と飛行場、建物の位置関係が私には解読できないのです。
(70代、市内)





●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

                       

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

 

 

※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu.goi@gmail.com

日本の中国東北侵略から91年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』


二月二十六日
一寸感じて運行表を見た。第十三列車(急行奉天長春行き)は煙台に止まるではないか。どうせ休むなら車中の方がーとんでもない心を起して午前五時半の急行で奉天まで行ってしまった。どうせタダだもん 少しは心配したが奉天も約一か月ぶりだ
駅で三拾分待って煙台駅で待った第十六に乗り換え 約一時間半揺られつつ遼陽に帰った。この頃の夜間勤務は本当にやりきれない 毎日のように夜中だもの




軍都広島での物語
●原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

墓標

「斉美小学校戦災児童の霊」

だまって立っている君たちの
その不思議そうな瞳に
にいさんや父さんがしがみつかされていた野砲が
赤錆びてころがり
クローバの窪みで
外国の兵隊と女のひとが
ねそべっているのが見えるこの道の角
向うの原っぱに
高くあたらしい塀をめぐらした拘置所の方へ
戦争をすまい、といったからだという人たちが
きょうもつながれてゆくこの道の角











●『細菌戦部隊』
731研究会編  1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』
731研究会編
はじめに
 1945(昭和20)年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦の日を迎えた。
 戦時下、日本軍は中国、南方に主幹となる5軍の細菌戦部隊を設置した。関東軍防疫給水部(満州第731部隊)を始め北京に北支那派遣軍防疫給水部(甲1855部隊)、南京に中支那派遣軍防疫給水部(栄1644部隊)、広東に南支那派遣軍防疫給水部(波8604部隊)、シンガポールに第7方面軍南方軍防疫給水部(威または岡9420部隊)を配置し、それぞれに多数の支部を設置した。1940年に731部隊に支出された金額が1,000万円に上り、実験業務費として約500万円が当てられていた(ハバロフスク軍事裁判での川島清証言)というから、その規模の大きさは推して知るべしである。これほど大掛かりに非人道的・違法行為を展開していたにも関わらず戦後東京裁判で免責されたことにより、それら部隊の実像と責任は、戦後、闇に葬られた。しかし特にここ数年、軍資料の発見や731部隊展をきっかけとして元隊員が声を上げ始めたことにより、閉ざされていた史実に急速に光が当たり始めた。 





●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行

第1 本件検定経過について

5 第1審における当事者双方の主張・立証の要点

 検定当局の主張は、前記の検定経過でのそれに添っている。なお、家永側が、学術書として前記『太平洋戦争』の他、科学史研究者である常石敬一の著書『消えた細菌戦部隊』の存在を指摘したことへの対応からか、一審の途中から、「史料の信用性を十分検討した学術研究図書ないし学術雑誌所収の研究論文」が必要であるとの主張を出すに至っている。
 証拠として、家永側では、歴史学者江口圭一と『悪魔の飽食』の作者森村誠一が証言し、これらの証言に関連する32点の資料が提出されている。
 検定当局側では、歴史学者秦郁彦が証言した(以下「秦証言」と略す)が、731部隊それ自体にかかわる資料は1つも提出されていない。




 
















●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明(2004年発行)




Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930

1、毒ガス開発の開始

シベリア戦争と毒ガス戦計画

シベリア戦争で、日本は最大の兵力を派遣して戦ったが、戦争の大義名分がなく、何の成果も挙げられなかった。こうして、日本は1922年にシベリアから、1925年には北樺太から兵力を引き上げることになる。



海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)



日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!



A事案区域内における土地改変時の対応について より
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)





 





  







・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第12章  癒しがたい傷


肺ガンの原因は毒ガス

 亡くなった人の地元にある竹原市保健所の協力のもと、広島大学の2つの研究室が現地で調査を行なった結果、亡くなった人はもと大久野島の毒ガス工場の労働者であったこと、亡くなった人の地元には、あの工場で働いたことのある人が他にもたくさんおり、いずれも程度の差こそあれ咳、痰、気管支炎などの症状があることが判明した。中には既に労働能力を失った人もいた。86人は既に死亡しており、そのうち61例の死亡届から分析すると、ほとんどは呼吸器系の疾病の為亡くなっていた。






 












核時代39年(1984年)5月初版発行

●『三光』     中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行


日本鬼子(リーベンクイズ)

糧穀の略奪
(冷酷非情な取り立て)


引地 章(ひきじあきら)
警察署長 警正
(略歴)
学歴 高等小学校卒業
所属 旧満国 図們警察署
年齢 54歳


これを見た引地はきつい顔をして、「双河鎮の劉署長は、そんなことを知っているのかね・・・・」と尋ねた。すると李村長が、「劉署長にも再三相談してみたんですが、今そういうことを言うべきではない」と言いかけて言葉を濁した。引地は相変わらず不機嫌な顔をして、「警務科には劉署長から何とも言ってこないよ、君達はこんな陳情だなどと大勢で県に押しかけ不穏なことをすると警察は放っておかんぞ」と叱るように言って睨みつけた。
 四人の農民はそっと腰を下ろした。早川は陳情書を手に持ったまま、「今日はあいにく県長も病気で休んでいることだし、後でゆっくり相談して、現地の調査をすることにしよう。万事はそれからのことだ。もうそろそろ小麦も食べられるようになることだし、えんどう、馬鈴薯も食えるようになる。雨もそう長く降らないこともなかろう。こんな時はあくまで辛抱が第一だ」と徹底した気休めを言ってごまかそうとした。













『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行 )
            藤井治夫著

第2篇  自衛隊の機密
第3章 防衛力整備

3 防衛基盤の整備

巧妙な冷戦戦略
その一つは三矢研究が実施された直後の63年8月末、航空幕僚監部で全国各部隊の作戦担当責任者を集めた会議が開かれたさいに配布された空幕の『防衛力整備に関する基本的見解』(63.8.23)と題する文書である。「取扱注意」に指定されているこの文書には、次のような記述があった。

「・・・このような場合、自衛隊、警察等の国家権力機構の能力が事態の鎮静を十分に果し得ないと、革命分子と同調者を中核とする武装鋒起、暴動が起り易くなり、特に多数の場所で一斉に起されると収拾が困難になるおそれがある。平素からこのような事態を導くため、国家権力機構の弱体化工作と各種様相下の行動のための計画と準備は、国の内外で着々と進められていると見るべきであろう。大衆民主制政治形態の下で、冷戦を有利に展開するためには、国の政治の中に総合された対策が特に巧妙に織り込まれねばならないのであって、今後国の政治の焦点はここに置かれることになろう。従って、今後社会面に現実に現れる冷戦の様相は、社会的現象の裏にかくれた国家の施策と敵性勢力の術策の激し 継続的な闘争の結果に規制されることとなろう。(この秘密戦の実体を分析究明して適切な策を講ずる事は、政府各分野に課せられている現在の課題である。)」












2、 生物・化学兵器の種類と特性

化学兵器の種類と特性

「焼夷弾」は、古代から火炎として利用されてきたものであるが、航空機の発達によって第1次大戦で初めて焼夷弾として広く使用されるようになった。第2次大戦以降、ナパーム弾、その他の火炎弾、火炎地雷などが発達し、焼夷剤の新しい分野が開かれた。

化学兵器として有効に使用できるための条件というのは、戦用ガス、発煙剤、焼夷剤と、それぞれの特性によって異なるわけだが、共通条件をあげると次のようなものである。
(1)貯蔵上安定であるか、または安定化しうる。(容器に対する腐触作用がないこと)
(2)原料入手が容易で大量生産しうる。
(3)少量の化学剤で大きい効果を得る。
(4)防護が困難である。

















●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!




第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年


第2章  天皇に育てる


 皇太子は、東京帝国大学教授箕作(みつくり)元八から西洋史の講義も受けたが、彼の『西洋史講話』はとくに愛読した教科書だった。『ナポレオン時代史』(1923年)、2巻本の『仏蘭西大革命史』(1919-20年)、ボリシェビキ革命とヨーロッパ各国の君主制の崩壊直後に出された『世界大戦史』(1919年)など、彼は箕作の主な本をむさばり読んだ。これらは革命と戦争を君主制に対する最大の脅威と規定し、革命の防波堤としての強力な中産階の重要性を力説していた。