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●京都大霊長類研究所を改編する方針について説明する湊長博総長ら(2021年10月26日、京都市左京区・京都大)
●第6回三多摩平和交流会(2021年10月9日~10日)
●映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)
●川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
●731部隊について
●2021 9 25加藤講演第1回目
●絶望的な核開発!!
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●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)
●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)
●2021 9 17 浅井基文講演
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●中国に於ける人体実験(伝染病研究所)
●第5回「戦争の加害」パネル展in横浜
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●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー
細菌(生物)戦争
米中の生物兵器開発?
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を―湯浅一郎(ピースデポ代表)
核兵器禁止条約の署名・批准の状況
米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
浅川地下壕を歩く
昭和への挽歌 野崎忠郎
ビキニ核被害者救済支援と731部隊
毒ガスの痕
693陸軍病院と万人坑
「日本のコロナ対応にみる731部隊・100部隊の影 」 お話:加藤哲郎さん
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中国人ビザ発給拒否・入国拒否裁判、東京高裁不当判決!!
日本でワクチンが出来ない訳は
加害の事実に触れない政府主催の全国戦没者追悼式反対!!
空襲被害者を救済せよ!!
忘れられた戦後補償
原爆初動調査 隠された真実
原爆・核実験・原発事故そして気候変動№2
2021 8 15 敗戦の日
韓国サンケン労組支援
7.13 多摩労務管理事務所問題の解決に向けて、申入れ行動
73l部隊関連資料の公開を求めて
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
《今も胸に 日航機事故36年》最期の様子、知りたい 生データ開示求め訴訟 夫を亡くした吉備素子さん
123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(15/08/12)
日航機墜落事故
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
ミッテランはいかにして野党をまとめ、政権を奪還したのか
731部隊について
今年のパネル展
11月14日(日)~19日(金)
●加藤哲郎講演会(一橋大学名誉教授)
11月16日(火)18:20~(開始予定)
「新型コロナ・パンデミックと731部隊・100部隊の影」
会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)
資料代500円
●森川聖詩講演会(神奈川県原爆被災者の会二世・三世支部)
「核なき未来へ 被爆二世からのメッセージ」
11月17日(水)18:20~(開始予定)
会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)
資料代500円
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
11月16日(火)
・731部隊関係者が戦後の医学界に果たした役割の大きさ、その陰にGHQの免責と擁護政策のあったとの話わかりやすかった。感染症対策を安全保障と関連づけない我が国。新型コロナ対策の遅れの要因との話。私もこの視点からの見方をしてなかった。
(70代、市内)
ドイツと日本の謝罪の違い
原告たちのあまりに理不尽な被害『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
昭和への挽歌 野崎忠郎
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません。
7月30日(金)~8月1日(日)
東京・武蔵野プレイス
8月3日(火)~7日(土)
徳島県阿南市
731部隊全景
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―
731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」
7 部隊全景
8 731部隊の始まり
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験
23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文
32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄
35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に
100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬
13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」
27 「敗戦後の軍馬①」
28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」
36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題
49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに
58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料
62 「100部隊」の新展示
63 おわりに
(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚) 2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚)
3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚)
5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地
2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、
軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地
貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル
⑥ 馬具補助パネル
※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります
3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝
※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.
日本の中国東北侵略から90年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
「1931」斉藤準太郎の日記
三月二十日
晴 風あり。射撃アリ。
今日非常に面白い記事を見た。昭和三年の?月号の満州公論の中に堂々と書き出されていた 我鉄道守備隊兵としての生活勤務と地方在満者の態度を述べて 満鉄自身及地方民の不可解なる態度をなじり書き立ててあったことは本当に心気がよかった。
先ず明治天帝の東洋に対する堅い〇から語りだし
守備兵の日常務を示して「各々旅客列車でスチームの暖に上着を脱ぎ 大陸を心行くばかりに味わいつつ雪景色を眺め 異国の中に一番大人式にふんぞり返っている。その裏に3人4人防寒具を身にまとい 列車運行の万全を期する為に 零下参拾度もそれ以上の中も百度以上の酷暑にも不平一つ言わず 与えられた任務の為に氷る銃を手に巡察に 暖かい住家の灯の消ゆる時分 夜中とは言わず夜明けとは言わず 斤倹にも出かけ停車場の監視兵に或いは不完全な分遣隊に―として働く兵隊の生活の裏面を見れば誰が涙なきにあらずや」
私はこれを見て決して不幸というのではない 特殊な技能のいる守備勤務を実行することの出来るのを喜ぶのである。なぜこんなことを書くと云うとそれは勝手ながら今書く
軍都広島での物語
●原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
八月六日
あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングはけ、橋はれ
満員電車はそのままげ
涯しないと燃えさしのであった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれたを踏み
原爆初動調査 隠された真実
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
細菌詩集
731部隊を詠む
とべ しゅん(仮名=ペンネーム)
1644部隊
〈経歴〉
1919年生まれ
1940年 中支那防疫給水部栄1644部隊に配属
1944年 帰国。召集解除
■この証言は『詩人会議』(1995年7月号)所収の文章に、これまで発表された詩と文章を加えてまとめたもの。
浙贛作戦
昭和19年5月に、私は東京出張を命じられました。目的は埼玉県の大宮近郊の農家で飼育しているマウスとモルモットを、南京の栄部隊迄輸送するのが任務でした。私たちが輸送してくる以前は、長崎から上海までの海上ルートをとっていたようですが、既に上海ルートは潜水艦の跳梁で危険になっていたので、責任者の中尉の独断で変更され、時間をかけても安全な陸上輸送をすることになったのです。下関から連絡船で釜山に上陸して、朝鮮半島を北上して“満州”に入り、“北支”天津からは津浦(しんぽ)線を利用して浦口(ほこう)に到着しました。揚子江対岸の南京に小さな汽船で渡るときに、雨がくるというので、ねずみを入れた木箱を甲板に積み上げて防水シートで覆いました。ごく短い時間でしたが、蒸れてねずみが数多く死にました。部隊に搬入した時点では、半数が斃死していたのですが、長途の陸上輸送の困難にも関わらず、よくこれだけの数量を搬入することができたと賞されました。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ 東北
2 華北
4 山西
湯浅謙自筆供述書(1954年11月20日)
私とその他の軍医は、捕虜を手術台の前に引っ張ってきて台の上に横たわるよう押しやった。彼がまだためらっていると、その着衣をすべてはぎとって、両手を取って台の上に押し倒した。この時ほかの軍医が捕虜の腹部に手術を行い、私は麻酔剤の投入を担当し、腹部手術と合わせて麻酔剤の効果を実験した。相前後して投入した麻酔剤の量はかなり多く、それによって捕虜に死の兆候が現れるかどうか検査した。もう1人の捕虜には、私が「気管手術」の練習を行った。この2名の捕虜に対して行った生体解剖手術の演習が終わった後にも、そのうちの1名の呼吸は停止していなかったので、私は両手で彼の首を絞めたがすぐに死なせることが出来ず、まだ呼吸していたので、ほかの軍医1人と協力してベルトで首を絞め、完全に殺した。その後、2名の死体は付近に埋めた。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
2 毒ガス戦に対する参謀本部の意識
イタリア軍・日本軍の毒ガス戦と国際勢力
確かに日本・イタリアは連盟から脱退していたので限界があったのは事実だが、連盟の各国、とりわけ欧米諸国は、エチオピアや中国での悲劇に対して非常に〈鈍感〉だったといわざるを得ない。うがった見方をすれば、欧米諸国とその勢力圏が脅かされそうな場合は問題にするが、アジアやアフリカについてあまり気に止めないという欧米諸国の思考がここから窺えるのではないだろうか。そこには、彼らのアジアやアフリカに対する意識に問題があったということはいうまでもない。日本やイタリアが毒ガス戦を行い得た背景には、このような問題があることも視野に入れる必要がある。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
付記:将軍の証言
日本軍の気狂いじみた「掃蕩」に対して、八路軍と地元民は地形に詳しいことを利用して、「攻撃してはすぐ逃げる」という敵を翻弄するゲリラ戦を行なった。日本軍はその結果、しばしば我々に分割包囲されることになった。包囲された日本軍はこれは突破せんがため、毒ガスを放った。その大部分は催涙ガスであった。わが軍には防毒の備えがなく、毒ガスを浴びるたびに泪、鼻水、くしゃみが止まらなくなり、戦闘力を失った。日本軍はこの隙に逃げた。
385旅団で初めてこの手の攻撃を受けたのは、馬忠全率いる連隊であった。馬連隊長はガスを浴びての撤退後、司令員(即ち陳錫聯のこと)に報告した。『何が起こったのか、兵たちが涙、鼻水が止まらず、戦えない』と。このほかに日本軍は、渉県赤岸村の八路軍総本部にも毒ガスを放った。この時は糜爛性(びらんせい)のガスで、これは催涙ガスよりもずっと猛毒であった。
「加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題
●『三光』 中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
懐柔
捕虜を密偵に仕立てようと画策
大井憲太郎
特捜班長 警佐兼地方保安局属官
〈略歴〉
本籍地 長崎県西彼杵郡
出身階級 雑貨小売商
学歴 私立長崎貿易商業学校4年中途退学
職業 市役所事務員
所属部隊名 旧満州興安総省警務庁特務科
被捕年月日場所 1945年11月25日
長春市祝町朝日ビル3階
年齢46歳
首を前にかがめ、体を震わせて歯ぎしりをした曲は息を弾ませ、早口に鋭い声で「畜生!お前たちは、どうしてこんなに罪のない者をなぶり苦しめるんだ」と言った。
「なにッ、宣伝をしたと言えば助けてやるんだ」
「そんなこと、嘘だ、俺は何も知らん」と曲は口をつぐんだ。
何とかものにせねば、と焦った私は、
「そう頑張るなら致し方ない。こたえるようにしてやろう」と両手を後ろにねじり回し、両足もろともがんじがらめに縛り上げ、脇の下に棒を差し込み拷問台に吊るしあげた。曲は見る見るうちに額に脂汗をにじませ、眼を吊り上げ、
「ウーンウーン」と苦悶した。
「もういい頃合いだ」とそばに行って頭を小突き、
「どうだ言わないか」と言った。
曲はさっと頭をあげたかと思うと、ペッと唾を吐きつけた。
「この野郎、どこまで図太いんだ」と殴りつけ、うんと苦しめてやれと放りぱなしておいた。
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
>
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
米海軍厚木基地 化学・生物・放射線・核訓練 共産党、国に中止求める
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー
5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
・12 月 20 日(月)午後 2 時
・1 月 14 日(金)午後?時
・1 月 24 日(月)午後?時
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行 )
藤井治夫著
第6 機密国家の復活
1、大日本帝国と国家機密
戦争と軍事機密
以上のような経過を経て、機密保護法規はほぼ骨格をととのえ、最初の本格的な対外戦争である日清戦争を迎えることになった。そしてこの戦争の勝利は、軍備と機密保護体制をいっそう強化するテコとして作用したのである。戦後まもなく、「諸外国の我が軍機を偵知せんとするの情漸く切であり、加ふるに我が国防計画は爾来著々達成に赴き動員出師の準備は年を追うて整頓する等愈愈軍事上の秘密を厳守するの必要を生じた」(日高前掲書)ので、1899(明治32)年7月15日、軍機保護法および要塞地帯法が公布されることになった。これにより一般国民を直接の対象とした特別の軍事機密保護法が、はじめて現われたのである。刑法、陸・海軍刑法の規定は主として戦時に関するものであり、出版法その他軍用電信、軍港要港の保全についての法令は特殊の分野に関するものであったが、軍機保護法は平戦時をとわず、軍事機密総体を保護するものであった。
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅰ 生物・化学兵器を告発する
3、沖縄―核だけなく毒ガスも
沖縄基地の毒ガス事件
彼はさらに、「約6時間以内に全員が退院し、正常な業務に復した」と述べたが、原水爆禁止沖縄県協議会からの情報に依ればヘンキン国防次官補の弁明にもかかわらず、毒ガスを吸引して入院した中毒患者はまだ退院しておらず、極秘に隔離されているもようである。
米紙の報道を受ける形で、沖縄現地の新聞はもとより、本土の新聞も一斉に、「核ばかりか毒ガスもか」という風にこの問題を取り上げたが、『ウォール・ストリート・ジャーナル』にこの記事が掲載された日、岐阜県に米空軍機プルバックミサイルを投下するという事件もおき、アポロ11号と対蹠的な問題として、世論を喚起することとなったのである。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章 静穏な晩年と昭和の遺産
Ⅳ
佐藤内閣のとき、天皇は〔焼失した明治宮殿にくらべて〕小規模の新しい宮殿に移り、東京オリンピックの開催に参列し(ともに一九六四年)、「近代化に成功した」100年を祝する「明治百年記念式典」に出席し(1968年)、大阪万国博覧会を皇后と2度訪れた(1970年)。これらの行事は日本の経済的達成に対する誇りを高め、国の権威を誇示した。国家の誇りと尊厳は、佐藤の沖縄返還交渉によってさらに高まった(1972年)。しかし、日米双方が沖縄をアメリカにとっての「太平洋のジブラルタル」に留めておくことを望んだため、アメリカは引き続き大兵力の駐留を認められた。東京での返還式の際、天皇は外国の高官と会見し、式典では戦中と戦後の沖縄県民の犠牲に対して哀悼の念を述べた。