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●第6回三多摩平和交流会(2021年10月9日~10日)
●映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)
●川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
●731部隊について
●2021 9 25加藤講演第1回目
●絶望的な核開発!!
●トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)
●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)
●2021 9 17 浅井基文講演
●2021年満州事変90周年
●沖縄の環境が危ない!!
●中国侵略戦争
●中国に於ける人体実験(伝染病研究所)
●第5回「戦争の加害」パネル展in横浜
●731部隊の罪業
●武蔵村山の国立感染症研究所問題!!
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー
細菌(生物)戦争
米中の生物兵器開発?
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を―湯浅一郎(ピースデポ代表)
核兵器禁止条約の署名・批准の状況
米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
浅川地下壕を歩く
昭和への挽歌 野崎忠郎
ビキニ核被害者救済支援と731部隊
毒ガスの痕
693陸軍病院と万人坑
「日本のコロナ対応にみる731部隊・100部隊の影 」 お話:加藤哲郎さん
「日本のコロナ対応にみる731部隊・100部隊の影 」 お話:加藤哲郎さん
中国人ビザ発給拒否・入国拒否裁判、東京高裁不当判決!!
日本でワクチンが出来ない訳は
加害の事実に触れない政府主催の全国戦没者追悼式反対!!
空襲被害者を救済せよ!!
忘れられた戦後補償
原爆初動調査 隠された真実
原爆・核実験・原発事故そして気候変動№2
2021 8 15 敗戦の日
韓国サンケン労組支援
7.13 多摩労務管理事務所問題の解決に向けて、申入れ行動
73l部隊関連資料の公開を求めて
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
《今も胸に 日航機事故36年》最期の様子、知りたい 生データ開示求め訴訟 夫を亡くした吉備素子さん
123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(15/08/12)
日航機墜落事故
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
ミッテランはいかにして野党をまとめ、政権を奪還したのか
731部隊について
第6回 戦争の加害パネル展
(感想)
5月9日(日)
78.詳しく勉強になる内容でした。今のネット社会にまんえんするデマ、偽りの情報を信じて歴史を知っているつもりになっている人の多さを憂慮しています。次回もお邪魔します。お疲れ様でした!
(女性、40代、市内、FB)
ドイツと日本の謝罪の違い
原告たちのあまりに理不尽な被害『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
昭和への挽歌 野崎忠郎
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません。
7月30日(金)~8月1日(日)
東京・武蔵野プレイス
8月3日(火)~7日(土)
徳島県阿南市
731部隊全景
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―
731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」
7 部隊全景
8 731部隊の始まり
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験
23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文
32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄
35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に
100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬
13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」
27 「敗戦後の軍馬①」
28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」
36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題
49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに
58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料
62 「100部隊」の新展示
63 おわりに
(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚) 2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚)
3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚)
5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地
2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、
軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地
貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル
⑥ 馬具補助パネル
※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります
3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝
※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.
日本の中国東北侵略から90年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
「1931」斉藤準太郎の日記
二月二十一日
第一回予防注射 午前十時にする 外暖かにして日うららか。零下十度
初年兵時代を思わすような注射が始まる。すべて軍隊式の注射故見ただけでも身震いする。ネズミを捕まえてはペスト菌を探すような姿の川崎軍医のユーモラスな口ぶりに 笑いの中に注意(予防注射故)が始まり、一人ひとりしかめ顔よろしく 一合もあるくらいの液を左胸にいれられる。絶対安静が必要なり なんと不良連中のみ 遅番下士の言うには(僕と中島 武田)三人頭をそろえて一班の奥の方の窓際に集まって 外のうららかな景色を見ながら二四時間寝ることができるんだ。
お昼は床の中で御飯を食べた。入営依頼初めてだ。ほんとうに心まで晴れやかなれど胸がチクチク痛くなり 夜は不寝番に申し送り一晩中冷やしてもらう。昼間寝たためか、熱の為かなかなか寝られない。
注射の思い出が様々浮かぶ。寝ていては皮肉的におこられ、起きては怒鳴られたあの時の苦しみが自分の胸をかすめる。
軍都広島での物語
●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)
エピローグ 広島から・・・・
この4月、僕は被団協の原爆被災体験資料収集と出版の事業に対して知識人による協力委員会の結成を呼びかける、一通の手紙を書いた。それは次の文章である。
≪・・・被爆者たちが、手記を書き残すということ、原爆に関わる全ての資料を整理、保存しようとすることは、言わば最もストイックな自己証明あるいは自己救済の意志による事業です。しかもそれは、我々、被爆しなかった全ての人間の、今日の自己認識、明日の運命に結びついている事業であって、すなわち、我々は被爆差たちの計画を、畏敬の念とともに側面援護すべきだと考えるのであります。
原爆初動調査 隠された真実
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
南京でもやっていた人体実験
血管が切ると心臓からものすごい勢いで血が・・・・
松本博
1644部隊
経歴
1926年生まれ
1943年中支那派遣軍防疫給水部栄1644部隊配属
この証言は1995年6月、8月、11月の聞き取りをまとめたもの。
全採血
私の仕事は“マルタ”の監視だけではありませんでした。“マルタ”に食事を与えること、毎朝“マルタ”の検温をすること、“ロツ”の中の便器の汚物を回収することなど、様々な役割がありました。便器というのはおひつような形をしていて蓋をするようになっていました。“マルタ”はそこに座って用を足すのです。座るとおしりがはまるぐらいの大きさでした。ただ、“ロツ”は狭いですから、用を足すとき“マルタ”は両手を床についてかがみながらやっていました。便器にたまった便は、毎朝回収しました。“ロツ”の一角に小窓のような口があって、そこから便器を出し入れしました。“マルタ”が自分で便器を差し出すのです。石油缶に取手を付けて作ったバケツの中に汚物を集めて、ダストの中に捨てました。それも私の仕事の1つでした。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ 東北
2 華北
2 河南
野田実自筆供述書(1954年7月31日)
1945年4月上旬、私は平原省焦作鎮の第117師団野戦病院で院長の軍医少佐丹保司平の命令により、第117師団野戦病院附軍医中尉新田林、軍医少尉高岩、衛生部見習士官水谷を指導して解剖練習を行った。この他に参加したのは病院附衛生軍曹森下及び2名の衛生兵で、丹保司平も現場にいた。実験対象は焦作憲兵分遣隊から連れてきた八路軍工作員で、軍医教育を目的として生体解剖をした。まず全身麻酔をかけた後、新田林と水谷に命じて開腹、盲腸切除手術と内臓各器官の検査をさせた。また、右上腕部を切開し、上腕動脈を処理し、上腕切断手術も行わせた。その後、私と高岩が左大腿部の切開して大腿動脈を処理し、大腿切開手術をし、また前頸部の気管切開手術をした。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦
4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍
アメリカ軍の対日毒ガス戦計画
最後にアメリカ軍が立案した対日毒ガス戦計画について触れておきたい。1975(昭和50)年6月にオーガスチン米陸軍次官は、アメリカ軍の軍事予算に含まれる化学兵器関連の費用を説明するために下院の小委員会に出席し、イタリアはエチオピアに対してマスタードガス(イペリット)を使用して、日本は1941年に宜昌で多量のマスタードガスを使ったが、これは相手側に報復能力と防護能力に欠けていたことが化学兵器の使用に踏み切る「決定的要因」になったのだとし、それゆえにアメリカ軍にも報復能力が必要だと述べた後、「ナチが第2次大戦の初期に神経剤を開発しながら、それを使わなかったのは、報復を恐れたからだというのが一般の見方だ」とした上で、アメリカ軍はサイパン、硫黄島、沖縄で多大の損害を受けたために、対日戦争の早期終結を図るためにガスを使うことを真剣に考えたが、「無防備の同盟国中国に日本が報復使用する恐れが1つの重要な理由になって、米国は使わなかったのだとされている」と述べている(『朝日新聞』1975年9月10日)。
アメリカ軍が毒ガスを行使した場合、中国戦線の日本軍がその報復として中国に対してより大規模に毒ガスを使うのではないかと憂慮していたというのである。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
江西南昌作戦(1939.3.17~29)
続いて野戦毒ガス隊が12㎞の進攻において中型毒剤筒1万5000個を使用、毒煙は幅300mの修水河を越えて、対岸の国民党軍第1線陣地を縦に2㎞の地点までを覆った。日本軍は防毒マスクをつけて23日、虹津で強行渡河した。続いてその勢いにのって安義を占拠、23、24日、万家埠、奉新に侵入した。
これと同時に、日本軍の116師団の一部、大小軍艦20余隻、海軍陸戦隊の一隊が呉城鎮に侵入した。国民党第29軍59師団(曾 初)(空白部分未詳)及び32軍第141師団(唐永良)の陣地であった。数日にわたる激戦が展開されたが、中国軍は死傷者が続出し、24日撤退を余儀なくされた。
「加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題
●『三光』 中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
処刑
抵抗する捕虜を始末する
川田孝
伍長
〈略歴)
本籍地 東京都足立区
出身階級 労働者
尋常高等小学校卒業
職業 綿花卸商店員
所属部隊名 第59師団53旅団独歩43大隊機関銃中隊
被捕年月日場所 1945年8月22日朝鮮興南市
年齢 37歳
「“言動に特別注意し、逐一前畑軍曹に報告すべし、他の留置人との関係及び動向に注意し、厳に会談を禁じ、適宜処置すべし”か・・・・・よーしわかった、それで何か特別のことがあったのか」
「よく聞いてみろ、毛沢東って言うから」
「なんだい、マオゾウトンってのは」
「八路の親玉らしいぜ」細木も自信なげであった。
私は人員点呼に奥に入っていった。歌声が留置場にこだまして響き返っていた。
第3房の格子の間から両手が外に引き出され、鋼の手錠が手首に食い込み、分厚い大きな手が紫色に変わっていた。
「この野郎か」あの瘤のある顔の真ん中だけが3寸角材の格子から覗かれた。ふと歌が止んで、彼の眼が私を憎々しく刺すように睨んだ。
「どうだ、ざまあみやがれ」
私は彼を留置した翌朝のいまいましたが頭をもたげ、手錠を力任せにグイグイ引っ張った。
「ウーン、ウーン」彼は痛みに耐える呻きを漏らした。
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
>
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
米海軍厚木基地 化学・生物・放射線・核訓練 共産党、国に中止求める
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー
■ 第 31 回『衛生学校記事』情報公開裁判:10 月 21 日(木)15 時~103 号法廷
8 月 25 日、5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
・12 月 20 日(月)午後 2 時
・1 月 14 日(金)午後?時
・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行 )
藤井治夫著
第3章 秘密保全の機構と体制
2 軍事警察とスパイ機関
戦後の弾圧事例
秘密保護法により弾圧された事例についてみると、刑特法第6条(合衆国軍隊の機密を侵す罪) 関係で、同法施行直後に4件あった。いずれも52年後半のことで、全部が不起訴となっている。54年5月11日参院法務委における政府説明によると、その概要は次のとおりであった。
(1)52年9月ごろ、路上で米軍機密と思われる軍事施設の位置、航空機の編成装備について記載した宣伝文書を頒布した者があったが、米軍から同文書の内容は機密に該当しないとの通告があり、不起訴処分とされた。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
「化学学校記事」
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
1、生物・化学兵器を告発する
禁止への努力
ジュネーブ議定書
そして化学兵器は一般の農薬、医薬品の研究開発・生産と全く同様の施設で造られる。生物兵器も普通の微生物研究機関で大量に製造できる。ある程度の科学水準の国なら、秘密裏にいくらでも高性能の生物・化学兵器を製造できる。従って、『いかなる生物。化学兵器も、ひとたび戦争で使用されると、同種の、より危険な兵器や、他の大量殺戮兵器の使用という深刻なエスカレーションの危険が出てくるだろう。端的に言えば、生物・化学兵器と、それに対する防衛手段の開発は、必ずしもそれに見合う安全保障の利点を伴うことはない』からである」という。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章 静穏な晩年と昭和の遺産
Ⅱ
国民の関心が、その義務よりも権利のほうに向いているのを憂慮する天皇は、こうした保守派の立て直しを歓迎した。彼は再び公文書を裁可し、外国使節の信任状を接受するようになったことを喜んだ。政治と政策決定に積極的に関与した時期には、彼は独自の行動が可能だったのであり、そのような実質的な意味での政治活動の再開を待っていたのである。だが彼の憲法上の地位は、いまでは単に「象徴」でしかなかった。軍事・外交・政治への関与は認められなかった。1954年6月に自衛隊と防衛庁が発足したとき、それらは設置法に規定された文民統制の原則によって、内閣総理大臣の指揮を受けることになった。新しい日本軍の蚊帳の外に置かれるのは、天皇には不本意なことだった。日本の政治と政策形成に対する彼の場違いな感覚は増大し、欲求不満をさらに強めた。