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20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を―湯浅一郎(ピースデポ代表)
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「日本のコロナ対応にみる731部隊・100部隊の影 」 お話:加藤哲郎さん
「日本のコロナ対応にみる731部隊・100部隊の影 」 お話:加藤哲郎さん
中国人ビザ発給拒否・入国拒否裁判、東京高裁不当判決!!
日本でワクチンが出来ない訳は
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「アジアの犠牲者にも思いを」マレーシア・横浜で集い
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原爆初動調査 隠された真実
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《今も胸に 日航機事故36年》最期の様子、知りたい 生データ開示求め訴訟 夫を亡くした吉備素子さん
123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(15/08/12)
日航機墜落事故
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
ミッテランはいかにして野党をまとめ、政権を奪還したのか
http://ptix.at/TDJfzm
第6回 戦争の加害パネル展
(感想)
5月6日(木)
40、パネルの初めにある東学農民の日本軍鎮圧作戦は(1864年7月~)公文書にも正しく書かれず、隠されてきましたので、山川日本史に全くなく、明治の初めに、まず行った事なので、もっと特集してほしいと思いました。(中塚明氏の書)関東大震災についても展示してほしい。デマとおかしな情報で、ヘイトする形は今も変わらず、アジア女性基金の、ネトウヨ化するメディアに対して今後も
事実を発信してほしく思います。
(要望)東学農民戦争の映画があるそうです。
関東大震災についての真実、何故虐殺が起きたのか、人数の根拠も併せて、在日ヘイト問題。
(女性、40代、市内、アリラン新大久保)
ドイツと日本の謝罪の違い
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6回
「登戸研究所と731部隊」(お話:山田朗さん)
731部隊・100部隊の戦後責任
原告たちのあまりに理不尽な被害『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
昭和への挽歌 野崎忠郎
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません。
7月30日(金)~8月1日(日)
東京・武蔵野プレイス
8月3日(火)~7日(土)
徳島県阿南市
731部隊全景
1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。
― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―
731部隊のパネル(A2版)
1 序章 薬害エイズと731部隊
2 HIVとAIDS
3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか
4 731部隊の影
5 第1章 731部隊の創設
6 「満州国」
7 部隊全景
8 731部隊の始まり
9 731部隊組織表(横向)
10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会
12 第2章 「マルタ」
13 憲兵隊と「特移扱」
14 「マルタ」と「特移扱」
15 朱玉芬の父と叔父
16 第3章 731部隊の人体実験
17 ペスト(黒死病)
18 炭疽(Anthrax)
19 流行性出血熱
20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ
21 毒ガス野外実験
22 赤ん坊への凍傷実験
23 医学者たちの独走
24 人体実験が結ぶもの
25 細菌戦は行われた
26 ペストノミによる細菌戦
27 細菌の大量生産
28 第4章 731部隊の戦後
29 軍事裁判と戦後処理(横向)
30 細菌戦部隊医学者の戦後
31 細菌戦医学者の博士論文
32 陸上自衛隊の博士論文
33 第5章 731部隊を告発する
34 戦争の語り部 篠塚良雄
35 戦争の語り部 三尾 豊
36 家永教科書裁判第3次訴訟
37 軍医学校で発見された人骨
38 731部隊国家賠償請求裁判
39 細菌戦国家賠償請求裁判
40 終わりに 731部隊を世界遺産に
100部隊のパネル(A2版)
1 はじめに
2 「はじめに」
3 「日中戦争における人と馬」
4 「戦争とは」
5 「ジュネーブ議定書」
6 「731部隊」と「100部隊」
7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」
8 「僞満皇宮博物院」
9 「日中15年戦争」
10 「植民地支配
11 「外地」での戦争犯罪
12 第1章 軍 馬
13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」
14 「軍馬の徴発」
15 「愛馬の見送り」
16 「軍馬の位」
17 「軍馬の改良」
18 「軍馬の名前」
19 「軍馬の訓練」
20 「テッチン」
21 「軍馬の世話・蹄手入れ」
22 「馬の寿命と病気」
23 「馬の伝染病」炭疽菌
24 「馬の伝染病」鼻疽菌
25 「馬学・獣医学の本」
26 「麻布連隊と白雪号」
27 「敗戦後の軍馬①」
28 「敗戦後の軍馬②」
29 第2章 100部隊
30 「細菌戦兄弟部隊」
31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」
32 「関東軍軍馬防疫廠」
33 「100部隊所在地」
34「100部隊の隊長」
35 「100部隊の細菌研究」
36 「100部隊の細菌製造部」
37 「100部隊2部1科23号室」
38 「関特演」と「100部隊」
39 「三河夏季演習」
40 「細菌戦 第6科新設」
41 「100部隊での人体実験」
42 「人体実験の犠牲者数」
43 「アヘン・ヘロイン」
44 「陸軍獣医学校」
45 「100部隊」の終焉
46 「100部隊」敗戦後の犯罪
47 「ハバロフスク裁判」
48 第3章 現代の課題
49 「戦前・戦中の獣医」
50 「現代の獣医師養成」
51 「熊本サンクチュアリ」
52 「加計学園獣医学部」
53 「何故 四国に?」
54 「加計学園獣医学部」資料
55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません)
56 「100部隊」の亡霊
57 おわりに
58 「学習と謝罪」
59 「前事不忘」
60 「100部隊」の新研究
61 「100部隊」の新史料
62 「100部隊」の新展示
63 おわりに
(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚) 2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚)
3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚)
5、タイトルパネル
1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地
2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地
3 731部隊 A4×5 黄地
4 100部隊 A4×6 桃地
5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地
6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地
7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、
軍馬補助パネル(付録)
1 馬術教範 B4×8 黄地
2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8
3 馬事提要 B4×12 桃地
貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!)
1、パネル(A2版)
①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円)
②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)
2、付録パネル
① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ
② 細菌戦部隊員の戦後
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術
④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真
⑤ タイトルパネル
⑥ 馬具補助パネル
※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と
「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります
3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)
①生体解剖(62×82×高さ59)/cm
②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm
③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝
※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。
※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。
※送料は、主催者団体でご負担お願いします。
※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。
※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.
日本の中国東北侵略から90年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
「1931」斉藤準太郎の日記
一月二四日
足は痛く演習あれども気合かからず 城外の東側半里くらいの所に遼陽会戦第四軍の戦績と二拾戦隊の記念碑あり 講和を聞きつつ堡塁を見る。
城壁・・・約三拾位の遼陽城の城壁の外を通りながら日本町に急いだ。市民の心からのもてなしを受けつつ午前十一時四十五分二十四列車でかりにむす?夢の楽しさ。
鞍山駅に着いた時はほとんどびっこを引いたのだ。大隊本部や初年兵に出迎えられて兵舎に入ったのが丁度〇時二十分 実際嬉しかった。入浴はできるし 水も安心して飲めるし なんと嬉しいことか。
軍都広島での物語
●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)
Ⅶ 広島へのさまざまな旅
しかし、自殺した婚約者は、いかにも象徴的な年齢、20歳で、まさに戦後の子だった。それでいて、彼女は、自らの意思において、この被爆した青年の運命に参加し、青年の死後、まさに彼女が青年に対して取りうる全責任を果たしたのである。国家は、青年に対して何ほどのこともできなかった。少なくとも青年の絶望の穴ぼこは、国家全体をそこに充填しても埋まらぬ巨大さだった。しかし、1人の純粋に戦後世代の娘が、後追い自殺することでその暗い穴ぼこを満たしたのであった。この20歳の娘の自らの意思による選択の壮絶さは、現にこの国家に生きている全ての人間にショックを与えずにはおかないだろう。絶望するほかない場所に追い詰められた青年を救済すべく、稚い娘がとった絶望的選択。
原爆初動調査 隠された真実
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
ネズミを集め、ノミの飼育
フンドシ一丁の体にノミが・・・・
伊藤影明(いとうかげあき)
1855部隊
(略歴)
1924年生まれ
1943年 北支那派遣軍甲第1855部隊部隊配属
1944年 発疹チフスで入院
1946年 帰国
■この証言は1992年3月の戦争体験を語り継ぐ会(横浜)、731研究会の学習会での発言(94年11月)をもとに本人がまとめたもの。
特別の仕事
それで「お前たちのところはここだ」と部屋を決められ集合をかけられると、偉そうな人が訓示を始め、お前たちはここへ選ばれて来たのだから、それを心得てもらいたいという話をしました。自分は軍人だとも軍属だとも言わない、上着を脱いで話をしているので、肩章(けんしょう)も見られず階級も分からない。ズボンを見て将校かなと思いながら私は話を聞いていました。後で分かったことですが、この隊長は篠田統(しのだおさむ)(京都大学講師で昆虫学者)という軍属の分遣隊長でした。彼は軍属ではありましたが、ここに関しては全部しきっていて、左官級ですからかなりいばっていました(1855部隊本部部隊長は西村英二大佐)
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
3 遼寧
告発人張丕卿の審問記録(1954年11月13日)
「満州国」矯正総局長中井久二の所属した奉天監獄が、拘禁し虐待死亡させたいわゆる犯人の死体を「満州国」奉天満州医科大学に送り、解剖実験が行われた罪行を明らかにするために、瀋陽市人民政府李永浦は、1954年11月13日、告発人張丕卿教室を審問した。張丕卿の自称によれば、今年45歳、職業は中国医科大学解剖研究室技官、住所は瀋陽市南市区九緯路西口北自強里2号である。
問:「満洲国」時代、奉天満洲医科大学が奉天監獄の「犯人」の死体を解剖した経過・情況について述べてもらいたい。
答:私は1932年に満洲医科大学の解剖研究室で実験手となり、「8.15」の祖国光復まで、ここを離れたことがない。そのため私は、これらのことを実にはっきりと記憶している。当時、学生が実習に用いる死体は全て、奉天監獄から楊という老人によって送り込まれてきた(同人は既に死亡している)。1943年から45年の光復までの間に、200から300の死体が運ばれ、そのうち一部分はまだ名簿が現存している。ほとんどが男性で約10体ほど女性のものがあり、全体の中で2、3体は絞殺死体だった(頸部に絞溝があることがその証拠である)。これ以外に1942年秋から43年春にかけて、奉天満洲医科大学の日本人医師は前後5回、およそ25人もの人々に対して生体解剖を行っている。生体解剖の事実については、私と劉学棋、及び日本人西村らが。翌日解剖室の片付けをした際に発見した血の跡が死体解剖の場合と異なっていたこと、また西村が「この連中は役所が送ってきた」と述べたことから判断できる。私の知るところ、生体解剖は夜間に行われ、日本の憲兵が厳しい警戒を行っていたため、中国人はその中の秘密を知るべくもなかった。
(1)119-2、21、2、第18号
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦
3 1943年中の中国戦線における毒ガス戦 掃蕩剔抉と殲滅戦
18春大行作戦での使用
熾烈の毒ガス戦が行われたのは、第1期作戦中の4月28日から29日にかけての河北省・東姚集の攻撃である。4月27日に攻撃部隊の独立混成第3旅団長・毛利末広少将は「攻撃にあたりではあらゆる赤弾赤筒発煙弾を使用すべし」と命令(「造作命甲第30号」)し、砲兵と航空部隊は「陣地要点の制圧破壊、あ弾(あか弾)及火弾(火炎弾)を使用することを決めたので、29日6時からの砲兵と航空部隊の攻撃は「殷々轟々たる砲爆声東姚集の天地を圧し今や修羅の巷と化す」と熾烈なものになり、山砲兵第36連隊は「あか弾」181発も一気に使用している(同連隊「18春太公作戦戦闘詳報」『資料集Ⅱ』資料57)。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第6章 悪魔の兄弟たちの毒ガス網
悪魔の兄弟の毒網
もし悪魔の兄弟という角度から見るならば、前述の731と516部隊の他、習志野学校、大久野島毒ガス工場も、又その中の構成員である。
関東軍はかねてから中国東北地区で毒ガス催涙弾を使用したいと思っていたが、裁可されなかった。しかし裁可されてからは、むしろ習志野学校が関東軍を通して、東北で度々化学兵器の実験を行うようになった。
黒竜江省の北安地区が最初に実験地区に選ばれた。
1934年11月、習志野学校は中国東北部地区で化学兵器の演習を行う計画を立て、当時の陸軍教育総監真崎甚三郎と陸軍大臣林銑十郎に報告した。報告は「北満」で毒ガスを使用して演習を行い、極寒時期における毒ガス隊の戦闘能力を点検する必要を述べている。演習の内容について報告は6項目を提起した、1、毒ガスの発射、2、毒煙の放射と使用、3、散毒隊の運用、4、消毒隊の運用、5、有毒地帯の強行通過、6、各種防御器材のの性能検査である。なお報告の中で、予定の実験地点は当時の黒竜江省克山県の北東50キロの北安鎭で、演習予算は2万9500円を提起した。
日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題
●『三光』 中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
村落掃討
上級将校の罪行
野間栄作
少佐
山村中尉は部隊の一部を連れ、村の西側の1軒の扉を叩いた。家人は何事かとズボンを履き、上着をかけて扉を開けた。戸口に立った銃剣が胸板を狙いながら、「外に出ろ」と引っ張り出し、「歩け」と薄闇の中を村落外に連れ出して銃剣で取り巻いた。「村長の名前は?何歳ぐらいか?村民の評判はどうか?」と簡単なことを尋ねてから、村長の家に案内を命じた。何事か分からないが、断わる問題ではないことを知っている村民は、渋々と村長の家に案内した。
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
>
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
米海軍厚木基地 化学・生物・放射線・核訓練 共産党、国に中止求める
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー
■ 第 31 回『衛生学校記事』情報公開裁判:10 月 21 日(木)15 時~103 号法廷
8 月 25 日、5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
・12 月 20 日(月)午後 2 時
・1 月 14 日(金)午後?時
・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行 )
藤井治夫著
第二章国家機密の構造
4 自衛隊の機密事項
極秘」の指定基準
右基準によって明らかとなる2、3の問題をしめしておこう。無条件に「極秘」に指定されるものは、防衛・治安出動部隊の行動の詳細および命令、出動のための編制および装備で航空自衛隊全般に関するものなどである。また、出動および出動準備に関連する基本的な計画および情報は公表されるもの以外、すべて「極秘」以上に区分される。長期および中期の見積(たとえば戦略見積など)、技術開発に関する計画、装備品等およびこれに関する資料・情報なども、「極秘」に指定される場合があることは注目していい。これを総括すれば、作戦用兵関係はすべて「極秘」以上であり、防衛力整備関係は重要なものが「極秘」、その他大部分は後に述べるように「秘」に指定されるということである。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器
2 生物・化学兵器と階級的視点
「間接侵略という言葉」
これを受けたトルーマン大統領が、1947年3月12日に、上下両院の会議に先だって呼びかけた、いわゆるトルーマン・ドクトリンは冷戦の開始を告げるものだったが、それはイギリスにかわって、アメリカが世界支配を遂行するための憲兵をもって任じることを内外に宣言したものであった。
「全体主義体制を強制しようとする侵略的な活動に対して、自由な諸制度と国家的統一とを守ろうとする自由諸国民に援助を与えることを惜しんでは、我々の目的は達せられぬであろう。
我々はまず、直接間接侵略によって自由な諸国民の上に強制された全体主義体制が、国際平和の基礎を危くし、ひいては合衆国の安全を脅かすものであることを、率直に認めねばならないのである。」
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第16章 神秘性をとりもどす
Ⅲ
天皇の九州巡幸は、初期のそれに比べて小規模になったが、それでも歓迎された。君主制支持の新手のメディア報道と、あらゆる面での政府の一貫した努力で、巡幸はどこでも同じように国民の「自然な」熱狂を引き出すことができた。天皇は労働着で三井炭鉱を視察した。ジャーナリストや学者や有名な文学者と会見した。長崎ではすかさず原爆の被爆者に焦点を合わせて病院を訪れ、放射線被曝の犠牲になって瀕死の床にいる医学者永井隆のかたわらでともに写真に納まった。同年初め、永井の手記『長崎の鐘』は、長崎が戦争終結のための純なる犠牲として神に選ばれたと述べて国民の琴線に触れた。この「永井ブーム」は、隠されてきた日本の核体験に国民が遅まきながら覚醒したことを示すものだった。天皇は巧みにそれに乗じたのである。