細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ




中国侵略戦争
中国に於ける人体実験(伝染病研究所)
第5回「戦争の加害」パネル展in横浜
731部隊の罪業
武蔵村山の国立感染症研究所問題!!
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
『化学学校記事』 情報公開裁判(第17回) 3月3日(水)11時~ 東京地裁 [703法廷]
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

細菌(生物)戦争
米中の生物兵器開発?
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を―湯浅一郎(ピースデポ代表)
核兵器禁止条約の署名・批准の状況
米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
浅川地下壕を歩く
『化学学校記事』 情報公開裁判(第17回) 3月3日(水)11時~ 東京地裁 [703法廷]
昭和への挽歌   野崎忠郎
ビキニ核被害者救済支援と731部隊
731部隊被害者遺族を訪ねて(731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会・第4回)
毒ガスの痕
693陸軍病院と万人坑



『化学学校記事』 情報公開裁判(第17回)
3月3日(水)11時~
「703号法廷」東京地裁民事3部
これまで防衛省は 『化学学校記事』 1号~12号 (1967年) までの発行は認めたが、 私たちが入手し提出した「16号」(1970年)について頑なに発行を認めませんでした。しかし19年末「16号」関係者の証言が得られたとしてやっと「16号」の発行を認めました。また、発行元が「大宮化学学校修親会」 と記されている事から「他団体の発行で関係ない」「1冊も保管していない」 と主張しています。 現在 「16号」 関係者の詳細証言と何年、 何号まで発行していたのかを追及しています。
 周知のとおり戦前の日本軍は、毒ガス・生物兵器を実戦使用し多数の軍民に残虐な被害を与えました。 旧軍を引き継いで発足した自衛隊も発足直後から秘密裏に化学兵器を所持、 研究していますが、現在ではCBRN(化学兵器・生物兵器・放射線・核)攻撃への防護のためと称して、研究・演習を行っています。
政府・防衛省の隠蔽体質は民主主義の否定、更に戦争への道にも通じる危険なものです。
全資料公開に向けて皆さまの支援、 傍聴をお願いします。


731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会・第4回
「731部隊被害者遺族を訪ねて」


日 時:2021年3月22日(月)18:30~
お話:大谷 猛夫さん
オンライン中継(zoomによる)
主催:731ネットワーク
 731部隊で人体実験された被害者は一人も生き残っていません。人体実験で殺され、敗戦間際に731部隊に収容されていた人たちは皆、殺されてしまったからです。それでも人体実験に供するために捕まえた憲兵隊の記録は残っています。そこから戦後になって被害者遺族が自分の親や親族が731部隊に連行され、無残に殺害された事実を知ります。これまで731部隊被害者遺族のうち、敬蘭芝さん、王亦兵さんが原告になり、日本政府を訴えた訴訟については、学習してきました(連続講座の1~3回)。この裁判の過程で、日本の市民運動のなかで、裁判支援の動きがおこり、被害者遺族が来日の際、市民集会を開くなど日本人に731部隊の事実を弘知ってもらう機会をつくってきました。そして、原告になった方以外にも731部隊の被害者遺族と出会う機会がありました。
 2012年秋に牡丹江・鶏西をたずね、被害者遺族と会いました。また裁判終了後も731記念館の協力で被害者遺族をお呼びし、市民集会を開いてきました。そんな遺族の紹介をしたいと思います。


曽漢卿さん。お父さんが憲兵隊に捕まり、731部隊に連行されました。
 
大谷猛夫さん
中国人戦争被害者の要求を支える会の事務局長を長く続けてきました。裁判終了後もその被害者とその遺族の要求を実現するために運動を続けています。
 
※zoomによるオンライン講演なので、申し込みは100名で締め切らせて頂きます。
18:30~19:30 講演(講演中はミュートでお願いします)
19:30~20:00 質疑応答(場合によっては質問はチャットでお願いするかもしれません)
 連絡先・申し込み E-mail : nobu51@jcom.zaq.ne.jp(五井)





原告たちのあまりに理不尽な被害『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

昭和への挽歌   野崎忠郎



 

●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
 ※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません。


 

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

                       

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

  

 


※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp



●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』


四月二三日

わたしの日記ではない 生活は此の上の開間ばかりになったのだという様な感じになったのだ致し方がない 面白い春らしい話しが生まれるんだもの 衛生勤務 午前七時起床 晴暖かし 土手の若い芝の芽が大きくなるところが見える位だ。
「小ようちゃん 芳っちゃんも今日は皆来たのね」「兵隊さん今日はねキノコ採りにきたのよ」「小ようちゃんが云ふれいちゃんやとしちゃんも一緒ね」「兵隊さん 兵隊さんのお家は何処?」「ここではないでしょうね。ね。・・・・おしえてよ」「兵隊さんここが家よ ここで毎日暮らしているんですよ」「うそうそ、兵隊さんの嘘つき だって少し仲良くなると兵隊さんみんな行って仕舞うでないの、本当のことと言ってよ」








●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)



挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年8月6日ポツダム書店発行)より

Ⅲ モラリストの広島
≪私は、今年72歳です。原爆の時は広島市の西口、太田川放水路の近くの屠殺場に勤めていて、ドカン、と大きな音がした時は、夏の真盛りなのでランニングに作業衣の前掛を胸からしているのみの私は、そのままの姿で、事務所の前の三和土(たたき)に仰向けに飛ばされていました。屠殺場でははだしであった為、足にガラスの破片が沢山刺さっていましたが、何か異常なもの音に包まれている中で、無意識の状態が続いたのです≫

唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

●『細菌戦部隊』
731研究会編

Ⅰ 731部隊  1996年9月(核時代51年)初版発行

731部隊破壊と証拠隠滅作業
ロ号棟に書かれた血文字が一生忘れられない

篠原鶴男(しのはらつるお)
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1945年5月 731部隊入隊(教育部に所属)第8分隊
1945年8月 帰国
■この証言は鹿児島731部隊展(1994年1月)の『報告集』をもとに本人がまとめたもの

部隊の破壊と証拠隠滅作業

各自各所で何をしているのかわからぬ状態でした。指示をすべき上層の幹部達は、731部隊にある重要書類などを持って撤退していたのです。その同じ時、私達は監獄を破壊せよとの命令されていましたので、爆破作業にかかっていたのです。


●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

1 関東軍第100部隊

安達誠太郎供述書(1954年8月16日)

問:100部隊への菌株の提供はどのような手続きを必要として、双方の誰によって受け渡されたのか。
答:100部隊の細菌研究室主任が馬疫研究処細菌室に赴いてきて、山田主任に要求した。山田重治は細菌を彼に渡してから私に報告した。私は「よろしい」と答えた。1週間後、関東軍は文書で細菌要求の件を事後処理した。一般にはこのようにして提供した。




●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第4章
毒ガス使用禁止をめぐる国際的な動向と日本軍の対応

1、「満州事変」とジュネーブ一般軍縮会議での日本の態度

陸軍省、関東軍の毒ガス交付申請を拒否

1932(昭和7)年1月23日、三宅光治関東軍参謀長は、催涙弾と「嚏(くしゃみ)弾}(くしゃみ性ガス弾)を合計2500発交付して欲しいと陸軍省に求めてきたが、杉山元(はじめ)陸軍次官は「対内対外関係上」の問題があるとしてこれを却下した(関東軍起案「催涙弾及嚏弾支給の件)。陸軍省は、関東軍が毒ガスを求めた理由と、なぜそれに反対したのかについての次のように説明している(同前)。


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・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第2章 地図から消えた神秘の大久野島


「被害者」はまた「加害者」でもある

付記・「毒ガス島」を訪れる

記録1 今日の大久野島

松江さんは広島の『中国新聞社』に勤務してきたことがあり、なかなかの健談家、彼は若いときに兵隊で中国の東北に行ったが、日本に帰り着いた時、故郷は戦災で焼けて何も無くなっていた。やっとの思いで親戚の家に身を寄せていた父母を探し当てたが、原爆の被害を受けて、母親は2年目に逝去し、父親もほどなく世を去った。この様な経験から、彼はことのほか戦争を憎み、A、B、C兵器の禁止問題には特に関心を寄せていたので、この会議のことを聞いて積極的に参加されたのだ。
 私は午前中に広島を発って来た。原爆資料館を参観したばかりで、原子爆弾の被害に深刻な印象を受けた。それにしても、村上先生は当時原爆の影響は受けていなかったのだろうか?と、心配して訪ねた。村上先生はここから広島までちょっと距離があるので影響は受けなかったといわれた。


 











日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
汚された泉
井戸へ放り込み惨殺
杉本千代吉(すぎもとちよきち)
大尉
〈略歴〉
学歴 中学高卒業
旧部隊名 第59師団第54旅団第45大隊
出身県 静岡県
年齢 38歳(1919年生まれ)

軍刀や鞭、獰猛な幾十かの眼玉に取り囲まれ、たまらない不安と堪えがたい苦しみの中から、「私は百姓です。どうか許してください」崩れる体を両手でやっと支えながら、農民は頭を地面に叩きつけるようにすて、何回も繰り返していた。その眼には大粒の涙をいっぱいにたたえて・・・。だが、私はそれを聞き入れようとしなかった。そんなことはどうでもよかった。「うるせえ・・・この野郎」私はつかつかと出て、農民の脇腹を思い切り蹴り上げた。



 


●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!

日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??

「琉球処分」から140 今の沖縄を考える

米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
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在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
米海軍厚木基地 化学・生物・放射線・核訓練 共産党、国に中止求める


●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?



『化学学校記事』 情報公開裁判(第17回)
3月3日(水)11時~
「703法廷」東京地裁民事3部
これまで防衛省は 『化学学校記事』 1号~12号 (1967年) までの発行は認めたが、 私たちが入手し提出した「16号」(1970年)について頑なに発行を認めませんでした。しかし19年末「16号」関係者の証言が得られたとしてやっと「16号」の発行を認めました。また、発行元が「大宮化学学校修親会」 と記されている事から「他団体の発行で関係ない」「1冊も保管していない」 と主張しています。 現在 「16号」 関係者の詳細証言と何年、 何号まで発行していたのかを追及しています。
 周知のとおり戦前の日本軍は、毒ガス・生物兵器を実戦使用し多数の軍民に残虐な被害を与えました。 旧軍を引き継いで発足した自衛隊も発足直後から秘密裏に化学兵器を所持、 研究していますが、現在ではCBRN(化学兵器・生物兵器・放射線・核)攻撃への防護のためと称して、研究・演習を行っています。
政府・防衛省の隠蔽体質は民主主義の否定、更に戦争への道にも通じる危険なものです。
全資料公開に向けて皆さまの支援、 傍聴をお願いします。

●「衛生学校記事」情報公開裁判 4月23日(金)14:00~103号法廷
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
自衛隊におけるCBRN対応
         長岡大学教授  兒島 俊郎
2 陸上自衛隊におけるCBRN対応
教範から見えるCBRN対応
 陸上自衛隊内部におけるCBRN研究
 化学兵器関係資料
次に「3、目標の形式」では、敵の具体的な態様別に適当な攻撃方法の指示がある。攻撃隊形にある場合は、GBの迫撃砲かロケット砲弾による攻撃が有効だとしている。予備隊の場合は、H弾(イペリット)もしくはGB弾の砲撃が有効だとしている。防御陣地に対しては、GB、迫撃砲、ロケット砲弾が良いとしている。その他の攻撃対象となりうる部隊について、gからhまで、機動防御部隊、空挺堡にある空挺部隊、上陸作戦部隊、特科部隊があげている。







第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1



金原節三と細菌戦

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

金原節三と武見太郎

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。


4、日本本土も汚されている

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦


2、研究開発と自衛官の入学拒否
自衛官の入学研究発表の拒否
防衛庁は「不合格」だったものについても、実際には“拒否”された疑いもあるとしており、今後大学の秩序が回復されない限り、自衛官締め出しの傾向が強まるのではないかと懸念しているそうである。
 大学や大学院から自衛官を締め出すということは、この春突如として起こったことではない。67年秋、名古屋大学で開催された日本生物環境調整研究会で防衛庁の技官が発表する予定だった宇宙医学の研究発表が拒否された。理由は、軍事目的の研究発表を中止させようとする学生運動が大きくなったからということだった。この研究発表拒否事件は防衛庁にとって大きなショックであった。




南方軍防疫給水部(岡9420部隊)







●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。






●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!




第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

第十四章 創り直された君主制


 それにもかかわらず、共産主義者や少数の改革論者という注目すべき例外はともかく、日本のほとんどの政治家たちはいまだに君主制に畏敬の念を抱いていた。彼らの旧態依然とした態度は、アメリカ側の憲法草案における民主主義精神と基本的に対立するものであった。保守主義者、社会主義者、自由主義者などほとんどすべての政治家たちの主な関心は『国体』の護持に注がれていた。彼らの考えによれば、国内の危機に際しては、政治的に力のある君主が必要だったのである。世論が君主制廃止の支持に向かうのを防ぐためには、わずかな修正は必要かもしれない。天皇の権力のある部分は取り除かれてしまうかもしれないが、しかし、すべてが奪われてはならなかった。彼らにしてみれば、とくに、天皇が「単なる飾り物」になってはならなかったのである。