細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? | 「731・100部隊展」

「731・100部隊展」

「731・100部隊展」実行委員会のブログ


中国侵略戦争
中国に於ける人体実験(伝染病研究所)
第5回「戦争の加害」パネル展in横浜
731部隊の罪業
武蔵村山の国立感染症研究所問題!!
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

細菌(生物)戦争
米中の生物兵器開発?
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
私が背負った昭和の業(731部隊員の父と過ごした戦後)
ひとさらい(731部隊員の父と過ごした戦後 野崎忠郎)
赤い雪
赤いチマ
父は獣医師だった
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を―湯浅一郎(ピースデポ代表)
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
核兵器禁止条約の署名・批准の状況
東京五輪組織委が森会長発言受け公式サイトに声明文「五輪の精神に反する不適切なもの」







1月21日(木)
根岸恵子さんが「731部隊と大連黒石礁事件」についてお話しされました。
(参加者の発言)
元憲兵の戦後の証言では、「私は、憲兵として『特移扱』により、4人を731部隊に送った。これが私の罪行の全てです。」と語っているが、その憲兵の中国での「戦犯供述書」には、「大連黒石礁事件で、731部隊に送ったのが4名、その他の事件で731部隊へ送ったのが14名」と書いてある。

講演資料
https://28.gigafile.nu/0324-d1b61d7b31b27182eda94fd9454194440



【歴史映像】戦争推進教育映画「戦ふ少国民」 昭和19年、電通制作


軍人恩給はあるのに、慰安婦には恩給がない!!
MYさん(城田すず子)は、1957年秋、ベテスダ奉仕女母の家に転がり込んだ。実家のパン屋が破産して16歳で売られ、国内外を転々とした末に更生の道を見つけたが、再転落しそうだとのこと。いずみ寮開設までの5か月間、軽井沢の古い家に奉仕女と住まわせていた。いずみ寮入所後の1958年11月、脊椎骨折で倒れ、絶対安静の病床で、小コロニーの第一歩としてのパン工場建設を夢見ながら自らの半生を口述した。扉に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」という聖句が書かれている。

「噫(ああ) 従軍慰安婦」石碑
1965(昭和40)年、深津文雄牧師は、社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設「かにた婦人の村」(かにた村)を設立した。
1984(昭和59)年、一人の寮生が自ら従軍慰安婦体験を牧師に告白する。この告白「石のさけび」を受けて、施設内にある小高い丘に1本のヒノキの柱を建てたのは「戦後40年」のことだった。翌年そこには、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が痕隆された。
「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表ユン・ジョンオクさんは、1980(昭和55)年より、北海道・沖縄・タイ・ラバウルの朝鮮人慰安婦の足跡を訪ね、1988(昭和63)年8月の来日の際にこの石碑を訪れた。
これが、韓国KBSテレビによるドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』の制作を生み、韓国内はもちろん諸外国にも大きな世論を巻き起こしていった。
戦争責任があいまいなまま半世紀以上が過ぎ、現在もなお、従軍慰安婦問題はアジア各国を巻き込む論争となっている。この石碑を通じて、地域から世界を見ることができる。
(安房文化遺産フォーラムの記事より)







「実的刺突」の解説
「実的刺突(じってきしとつ)です。
生きた人間を杭に縛り付け、銃剣で刺し殺す訓練をこう呼びました。
38式歩兵銃に30年式銃剣を「着け剣(つけけん)」して、抵抗できない人間を実の標的として刺突する訓練です。
初年兵教育の3カ月が経った時の卒業試験が「実的刺突」でした。

「人を殺すことが出来て、初めて一人前の兵隊である」というのが皇軍(天皇の軍隊)の兵士に対する考え方でした。
初年兵にとって何よりもつらかったのは「上官の命令は、朕の命令と心得よ」との『軍人勅諭』の教えでした。天皇の命令は絶対であり、上官の命令は天皇の命令として、決して逆らわない教育が徹底されていました。
この教育は子供の時から『教育勅語』により叩き込まれ、「竹槍訓練」での実践も繰り返されました。

皇軍兵士のほとんどが「実的刺突」を経験していますが、これを語る帰還兵士は極めて稀でした。兵士としても、人間としても決して許されない殺人、虐殺だったからです。中帰連の方々は加害証言として「実的刺突」を語り伝えました。
撫順戦犯管理所での認罪教育、「鬼から人」への改造がなされたからです。これを『洗脳』と呼ぶ人がいますが、大日本帝国では「人から鬼」への『洗脳教育』が『教育勅語』によってずっとなされていたのです。

731細菌部隊と帝銀事件との真相1

犯人像
・毒物の取り扱いに慣れていた人物
・もし、この犯人が変装にたけていたなら、731部隊とか、研究者関係は除外されるのではないか、むしろ
特務機関とかの謀略活動をやっていた人物ではないのか?
・旧軍関係者の虐殺行為はGHQと繋がっていた有末機関によって隠蔽された。
・警察は敗戦から3年で、日本の秘密戦部隊の残虐性を把握したが、国民には全く伏せていた!!
戦前と戦後の連続性 -帝銀事件と戦争責任-【後半】質疑応答

戦前と戦後の連続性 -帝銀事件と戦争責任-【前半】講演本編

 

 

 

 

米中の生物兵器開発?
謎の感染拡大ー新型ウィルスの起源を追う―
 


 

●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
 ※展示会の前後は搬入・搬出のため、ご利用できません。


 


入所者479人の遺体解剖 ハンセン病療養所が報告書―熊本

ハンセン病 文書が明らかにした“遺体解剖”の事実




終戦から75周年の今、新たな動きを受けての改訂新版!
『長き沈黙【増補版】父が語った悪魔の731部隊』 2020年11月10日初版第1刷発行 1000円+税
父は自らが隊員であった旧日本軍731部隊の罪状をマスコミに告白し、その2年後に世を去った。
父の遺志を受けて、485回にに及ぶ「語り継ぐ活動」を行ってきた著者。
「憲法改正」が声高に叫ばれ、70年間守られてきた平和憲法が脅かされる今、学び取ってほしい戦争の真実を伝える。
第1章 関東軍防疫給水部731部隊員になる
第2章 731の亡霊 私たちは何を学び取るか
第3章 悲劇を繰り返さないために 教育・学校を考える
混声合唱組曲『悪魔の飽食』

 


『スパイの妻』黒沢清監督 ヴェネチア銀獅子賞に輝いた最高傑作!
映画『スパイの妻』
第77回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞した、黒沢清監督最新作『スパイの妻』。
731部隊が行なった生体実験、細菌戦を世界に訴えようとした勇気ある行動!!
世界は、もう事実を知っているのに、なぜ日本政府は、
きちんと事実を認め、謝罪しない??

黒井秋夫講演会

 

おめでとう!!核廃絶!!
核兵器禁止条約発効へ ホンジュラス批准し50カ国・地域達成 「核なき世界」へ一歩

 

2020「731部隊 戦前・戦後の医学ー医学と人権を考える」1

2020「731部隊 戦前・戦後の医学ー医学と人権を考える」2

2020「731部隊 戦前・戦後の医学ー医学と人権を考える」3


 

隠された毒ガス兵器
 

今の日本の実態!!
多摩労務管理事務所闘争に勝利するための集会 2020.9.26




 

 

 

          731部隊全景

 

  
        100部隊の煙突


1930年代から1945年にかけて、中国東北部(旧満州)につくられた731部隊と100部隊は、人体実験を繰り返した細菌戦兄弟部隊。開発された細菌兵器は中国各地に撒かれ、多くの中国人民に深刻な被害をもたらしました。100部隊は関東軍軍馬防疫廠から出発した、軍馬の伝染病研究部隊ですが、謎の部隊で、獣医師・化学者達の戦争犯罪の実態が明らかにされてきませんでした。 細菌戦被害者を含めたアジア各国の戦争被害者や遺族は、現在も日本に責任を果たすよう補償を訴えていますが、日本政府は無視を続けています。 また、細菌戦部隊が戦犯免責と引き換えに研究データをアメリカに渡したことで、戦争犯罪に問われなかったことの影響はとても大きいのではないでしょうか。医学者が協力、設定した原爆被害者や公害・薬害被害者の「認定基準」は、多くの犠牲者を切り捨てるための基準となっています。医学者・獣医学者の犯罪は戦前・戦後を通じて続いているのです。 中国ハルピンの731部隊跡地は今、世界遺産に登録される方向にあります。日本が中国に造った部隊施設が、「なぜ世界遺産に値するのか?」過去を知らない人にとって、不思議に思うことかも知れません。外国からも多くの人が訪れる侵華日軍罪証陳列館、日本人はそこでどのような目で見られるのでしょうか。 中国長春では、偽満皇宮博物院内に、「100部隊」の新展示館が2018年12月に開館します。 「日本政府と日本市民には、歴史に関する記憶喪失がある」と国際的に批判されています。 日本人にとって、今、731部隊・100部隊展を行うことは、日本軍による人体実験や細菌戦の意味を考える絶好の機会となるのではないでしょうか。私たちは多くの次世代の若者にこの戦争加害の事実を伝えていきたいと考えています。 皆さま、どうか、あなたの住む地域やグループでこの「731部隊・100部隊展」を開いていただければと思います。連絡をお待ちしています。

    ― 731部隊・100部隊展 実行委員会 ―


 731部隊のパネル(A2版) 

1 序章 薬害エイズと731部隊 

2 HIVとAIDS 

3 薬害エイズ事件はなぜ起こったか 

4 731部隊の影 

5 第1章 731部隊の創設 

6 「満州国」

7 部隊全景

                  

 

 

8 731部隊の始まり 

9 731部隊組織表(横向)

10 陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク

11 第11回日本医学会総会と軍陣医学部会 

12 第2章 「マルタ」 

13 憲兵隊と「特移扱」 

14 「マルタ」と「特移扱」 

15 朱玉芬の父と叔父 

16 第3章 731部隊の人体実験     

17 ペスト(黒死病) 

18 炭疽(Anthrax) 

19 流行性出血熱 

20 毒ガス実験 旧陸軍のアウシュビッツ 

21 毒ガス野外実験 

22 赤ん坊への凍傷実験

23 医学者たちの独走 

24 人体実験が結ぶもの 

25 細菌戦は行われた 

26 ペストノミによる細菌戦 

27 細菌の大量生産 

28 第4章 731部隊の戦後 

29 軍事裁判と戦後処理(横向) 

30 細菌戦部隊医学者の戦後 

31 細菌戦医学者の博士論文

 

 

32 陸上自衛隊の博士論文

33 第5章 731部隊を告発する 

34 戦争の語り部 篠塚良雄

 35 戦争の語り部 三尾 豊 

36 家永教科書裁判第3次訴訟 

37 軍医学校で発見された人骨

 38 731部隊国家賠償請求裁判 

39 細菌戦国家賠償請求裁判 

40 終わりに 731部隊を世界遺産に

 

 100部隊のパネル(A2版)

1 はじめに 

2 「はじめに」 

3 「日中戦争における人と馬」 

4 「戦争とは」 

5 「ジュネーブ議定書」 

6 「731部隊」と「100部隊」 

7 「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」 

8 「僞満皇宮博物院」 

9 「日中15年戦争」 

10 「植民地支配

  

11 「外地」での戦争犯罪 

12 第1章 軍 馬

13 「軍馬:乗馬・駄馬・輓馬」 

14 「軍馬の徴発」 

15 「愛馬の見送り」 

16 「軍馬の位」 

17 「軍馬の改良」 

18 「軍馬の名前」 

19 「軍馬の訓練」 

20 「テッチン」 

21 「軍馬の世話・蹄手入れ」 

22 「馬の寿命と病気」 

23 「馬の伝染病」炭疽菌 

24 「馬の伝染病」鼻疽菌 

25 「馬学・獣医学の本」 

26 「麻布連隊と白雪号」

  

  
27 「敗戦後の軍馬①」

28 「敗戦後の軍馬②」

 29 第2章 100部隊 

30 「細菌戦兄弟部隊」 

31 「在満兵備充実ニ対スル意見 」 

32 「関東軍軍馬防疫廠」 

33 「100部隊所在地」

 

34「100部隊の隊長」 

35 「100部隊の細菌研究」

36 「100部隊の細菌製造部」 

37 「100部隊2部1科23号室」 

38 「関特演」と「100部隊」 

39 「三河夏季演習」 

40 「細菌戦 第6科新設」 

41 「100部隊での人体実験」 

42 「人体実験の犠牲者数」 

43 「アヘン・ヘロイン」 

44 「陸軍獣医学校」 

45 「100部隊」の終焉 

  

46 「100部隊」敗戦後の犯罪 

47 「ハバロフスク裁判」 

48 第3章 現代の課題

49 「戦前・戦中の獣医」 

50 「現代の獣医師養成」 

51 「熊本サンクチュアリ」 

52 「加計学園獣医学部」 

53 「何故 四国に?」 

54 「加計学園獣医学部」資料 

55 「検証 加計疑惑」(A2版ではありません) 

56 「100部隊」の亡霊

57 おわりに

  

58 「学習と謝罪」

59 「前事不忘」 

60 「100部隊」の新研究 

61 「100部隊」の新史料

 

  

 

62 「100部隊」の新展示

 63 おわりに 

 

 

(付録パネル) 1、細菌戦部隊の年表と戦後の流れ (A3版7枚)  2、細菌戦部隊の戦後 (A3版12枚) 3、元731部隊軍医と強制不妊手術 (A3版10枚) 

                       

   

5、タイトルパネル 

1 日中戦争における人と馬 A3×11 2列 白地 

2 日中戦争における人と馬 A4×11 2列 緑地 

3 731部隊 A4×5 黄地 

4 100部隊 A4×6 桃地 

5 侵華日軍第731部隊罪証陳列館 A4×15 2列 黄地 

6 偽満後宮博物院 A4×7 桃地 

7 前事不忘後事之師 A4×8 青地 6、

 

軍馬補助パネル(付録)

1 馬術教範 B4×8 黄地 

2 馬具解説 B4×9 表紙桃地1緑地8 

3 馬事提要 B4×12 桃地  

 

貸出要項(731部隊と100部隊野パネルを一緒に借りると16000円!!) 

1、パネル(A2版) 

①731部隊のパネル(40枚)・・・・・・・貸出料7日以内(10000円) 

②100部隊のパネル(62枚と他1枚)・・・ 貸出料7日以内(10000円)

 

 2、付録パネル 

① 細菌戦部隊の年表と戦後の流れ 

② 細菌戦部隊員の戦後                   
③ 元731部隊軍医少佐と強制不妊手術 

④ 731部隊南方作戦出発直前集合写真、毒ガス訓練写真 

⑤ タイトルパネル

⑥ 馬具補助パネル

 

  

 


※日数・規模に応じて、金額は相談に応じます。 
※他に「731部隊のパネル」(内容はA2 版と同じ、A3版 40枚) と

「細菌戦パネル」(A3版 79枚)があります

 

。   

3、模型・・・貸出料1台7日以内(10000円)

①生体解剖(62×82×高さ59)/cm 

②凍傷実験(82×72×高さ58.5)/cm 

③感染実験(77×74.5×高さ58.5)/cm ④毒ガス実験(90.5×75×高さ60)/㎝ 

 

 

※模型は、できましたら主催者団体が取りに来てください。 

 

※模型は、1993年製のもので壊れやすいので、取扱に注意してください。 

※送料は、主催者団体でご負担お願いします。 

※もし、破損した場合には、修理費用のご負担をお願いします。保険への加入をお勧めします。 

※お問い合わせは、080-4407-9554、nobu51@jcom.zaq.ne.jp



●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』


四月十三日

衛兵勤務 曇り 風あり 零下三度。
平凡のうちに下番の日が来た。昨日が下番である。今度の分遣は本当に始末の悪いガン口ばかりであった。雑役の萩野はご飯を炊きつつ 唄と共に木曽節に飛び跳ねてメッコの飯を作ったり。
数えきれない位に残るエピソード式の話題を残して珍しい顔ぶれの分遣も終わった。
菅野の野郎、初年兵の教育の名を借りて分遣ばかり来やがって仕様がない。うるさい事おびただしい。


●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)



挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年8月6日ポツダム書店発行)より

Ⅲ モラリストの広島
 これは個人的な反省だが、一人の日本人僕も又、癌におかされるなら罪障感も如何なる地獄への不安もなく、縊死するタイプであるのかもしれないのである。少なくとも僕は、自分が他人の自殺を制止する資格を持つ人間であるかどうかを、常に疑わないではいられない。僕は無力感のカビに腐食される。そしてそのような僕は、広島の、それでもなお自殺しない人々の存在に、深く根源的で、徹底して人間的なモラルの感覚を見出しては勇気を回復するものである。

唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

●『細菌戦部隊』
731研究会編

Ⅰ 731部隊  1996年9月(核時代51年)初版発行

小笠原 明(おがさわら あきら)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1928年生まれ。
1943年4月 731部隊少年隊に入隊
1944年4月 第2部(実験部)第2課田中班に配属。ペスト菌などを宿らせ伝染させるためのノミ増殖に従事。
1945年8月 日本への撤退途中で中国人民解放軍に入隊、4年間従軍
1949年 帰国。
■この証言は石川(金沢)731部隊展(1993年11月)、栃木(宇都宮)同展(94年9月)、沖縄(那覇)同展(94年1月)、広島同展(94年3月)の『報告集』よりまとめたもの

撤退

昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍の飛行機がばら撒いた照明弾で、夜なのに昼以上にあたりが明るくなりました。部隊はすぐ撤退するから一木一草残さず証拠隠滅して逃げよという事になりました。
 当時収容されておりました“マルタ”は全員、毒ガスでもって殺してしまったんです。先輩の草薙さんが言っておられますが、あのガスは青酸ガスではなく塩素系のガスだという事です。先輩は運び出されてきた死体の顔を見て、青酸ガスではない、青酸ガスなら必ず痙攣症状が起きて引きつった顔の死に方なっているんだ、ということからそう思ったらしいのです。







●中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

六 第731部隊の各支隊

榊原秀夫供述書(1955年3月24日)

榊原秀夫供述書(1955年3月29日)
問:牡丹江支隊は生産設備や飼育している動物の種類と数、培養している細菌の種類と数の面で、自分の支隊と比較してどう違っていたか。
答:大体において162支隊と同じであった。各支隊の任務は皆同様であったから、別に違いはなかったのである。
問:違いが無いという根拠は何か。
答:飼育している動物の種類や数は林口支部と全く同じだった。この点については私がこの眼で見た。培養している細菌の種類や数、生産設備の面でも林口支部と同じだと言ったのは、私がそう考えたのである。各支隊の任務は同じだったし、いずれも731部隊の統一的指揮のもとで仕事をしていたからである。
(1)119-2、8、1、第15号


●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第4章
毒ガス使用禁止をめぐる国際的な動向と日本軍の対応

1、毒ガス使用禁止を定めて国際法

ベルサイユ条約と国際連盟の成立

 第1次世界大戦が国家の経済力・生産力・技術力を総動員する総力戦として戦われると、戦争に勝利するためには相手国の軍隊を攻撃するだけではなく、都市や工場、輸送機関などにダメージを与えて戦争遂行能力を弱める必要があるという考え方が生まれてくる。特に、大戦で新兵器として登場した航空機は相手国に深く侵入して攻撃することが可能になり、1920年代には航空機の兵器としての破壊性に注目して都市や工場に対する無差別戦略爆撃が提唱されるようになった。
航空機を用いれば空からの毒ガス攻撃により民間人を無差別に殺戮することも不可能ではない。



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・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第2章 地図から消えた神秘の大久野島


「被害者」はまた「加害者」でもある

付記・「毒ガス島」を訪れる
 この部分を書こうと思った時、私は今の大久野島はどうなっているのか知りたいと思った。つまり、世界で1つしかない「毒ガス資料館」を是非参観したい、そして村上館長にも、岡田女史にも、そして昔ここで仕事をしていた作業員の人々にもお会いしたいと思ったのだ。1994年12月、ちょうどここで日本軍が第2次世界大戦中に使用した化学兵器の討論会が開かれたので、この機会に私の願いは実現した。以下はその時の訪問記録である。


 



日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
謀殺(ぼうさつ)
予防注射を口実に毒殺

中島宗一
属官
〈略歴〉
本籍 長野県下伊那郡
出身階級 農民
最終学校名 南信学院2部卒業
学校卒業後の職業 農業
最後の所属 旧竜江省警務庁特務科
被捕日時場所 1945年10月8日 旧斉斉哈爾(チチハル)市白済工廠

「科長殿だ、君に何かお話があるそうだから」私を中心に何か会議でもしていたような格好をしていた中で荒木が立って彼に告げた。荒木に言われて、私に丁寧に頭を下げる彼に、私は顎をしゃくるようにして言った。
「かけたまえ」志村の出す椅子にかけた彼は、まだ息が止まらず、苦しそうに肩で息していた。
高い背丈と頑丈な骨格は、元々健康な体であったことを思わせたが、私の前にいる彼は頬骨が高々と飛び出し、眼は落ちくぼみ、広い額に垂れ下がるぼうぼうと伸びた頭髪は赤茶け、全く色つやを失っている。

 


●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!

日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??

「琉球処分」から140 今の沖縄を考える

米軍厚木基地のCBRN訓練中止求め市民団体が抗議行動
>
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
米海軍厚木基地 化学・生物・放射線・核訓練 共産党、国に中止求める


●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?



2021年2月5日 『衛生学校記事』裁判
『衛生学校記事』情報公開裁判が、2月5日あった。
『衛生学校記事』の公開を求める原告は、破棄したことを示す図書原簿の二重線の意味を追及した。
原告は、原簿に二重線を引いても、それは廃棄したことにはならないのではないかと、具体的に事例を挙げた。

防衛省側は、誰が廃棄の指示を出したか、誰が廃棄したのかは、調査しても不明であるとしか答えなかった。
 1957年から2009年まで、発行されていた『衛生学校記事』(途中で名称が変わる)が、なぜきちんと衛生学校は保管していないのか?なぜ大切な物を廃棄する??
 平成17(2005)年までは『衛生学校記事』が、衛生学校にあり、それ以後、自分たちの作成した機関誌を廃棄する理由も特段考えられない。
 何か、隠している『衛生学校記事』を公開するとまずいことでも載っているのだろうか??

次回 「化学学校記事」情報公開裁判 3月3日(水)11:00~法廷未定
「衛生学校記事」情報公開裁判 4月23日(金)14:00~103号法廷
自衛隊におけるCBRN対応
         長岡大学教授  兒島 俊郎
2 陸上自衛隊におけるCBRN対応
教範から見えるCBRN対応
 陸上自衛隊内部におけるCBRN研究
次に「部外秘 参考資料 7-1-4CBR戦の参考」を紹介する。本資料は作成時期不詳であるが、恐らく「部外秘 読書資料 7-1-4CBR戦の参考」に関連してまとめられたものと思われる。但し作成部所は「講習資料」が防衛研究所なのに対して、「参考」は陸上幕僚監部化学課である。またこちらはガリ版刷り資料である。以下に目次を示す。
「原子爆弾の基本原理 核放射線の特性 原子爆弾発現現象及び汚染 原爆の人体に及ぼす影響 R機材について 放射線汚染地域の測定 原子兵器の概要 水爆の概要 戦術的防護 発煙機M2A1  Gガス 各種化学資材の性能 化学教育上の諸問題に対する考察」





第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。


4、日本本土も汚されている

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
1、自衛隊の装備・訓練を探る

ひとり立ちする自衛隊の研究  

 陸幕化学課がまとめた横型70ページ、「部外秘」のこの教範は自衛隊の生物・化学兵器自前開発の第1歩を踏み出せる歴史的なものとなったのである。これに先立って52年3月、「各種化学器材」教範が同じく「部外秘」で出され、同年12月には「軍用化学と化学剤」が、56年11月には「米軍化学科部隊参考便覧」と相次いで生物・化学兵器の教範が作られているのが目立つ。この他にも55年までに「化学除毒中隊(部外秘)」、「野外における化学剤の作用」、「化学除毒中隊」、「CBR所毒」など生物・化学兵器に関する教範類は出尽くした観があった。

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)







●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!


第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

第十四章 創り直された君主制

マッカーサーがアメリカ国民に報告せず、またアメリカの新聞も軽視したのは、天皇が、明治の過去と戦後の現在の民主主義とを偽って結びつけていた点である。1912年に死去した明治天皇が、1946年に誕生しようとしていた政治制度の事実上の創始者とされているのである。マッカーサーは年頭詔書を進歩的で解放的だと評したけれども、それとは裏腹に、人間宣言は裕仁とその側近による新たな挑戦であり、彼らはみずから「国民の民主化」を主導しようとするころか、天皇が成人して以来、ずっとやってきたように、民主化に制限を加えようとしたのである。